浦和地裁平成3年3月25日判例タイムズ760号261頁・刑訴百選【11版】70事件(黙秘権の告知と自白)
1 はじめに
本裁判例は、黙秘権の不告知等が自白の任意性に影響するとした裁判例です。
2 前提となる知識
憲法38条2項
強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
刑訴法319条1項
強制、拷問又は脅迫による自白、不当に長く抑留又は拘禁された後の自白その他任意にされたものでない疑のある自白は、これを証拠とすることができない。
3 問題の所在
「弁護人は、(一)被告人の捜査段階における警察官に対する供述調書は、(1)黙秘権や弁護人選任権の告知がないまま、(2)威嚇、暴行、脅迫、不当な差別待遇のもとに、(3)捜査官の創作により読み聞けもされずに作成されたものであり、また、(二)検察官に対する供述調書も、警察官による不当・違法な圧力の影響を遮断する努力を怠った状態のまま、被告人に対し終始冷淡な態度をとり続け、その反論を無視し、供述のニュアンスを変えて作成されたものであって、いずれも任意性がないことが明らかであると主張している。」
4 判旨
「第五 被告人の捜査段階の供述の任意性等について
一 緒説
本件の捜査段階において作成された被告人の捜査官に対する供述調書(事実関係に関するもの)は、員面三通(9・1付、9・7付、9・19付)及び検面二通(9・8付及び9・20付)の計五通であるが、そのうち、Bからの覚せい剤譲受けの事実を認めたものは、9・1付員面だけであり、その余は、譲受けの事実を否定する内容のものである。しかしながら、右否認調書は、いずれも、一定の限度において不利益事実を承認する内容のものであり、被告人の公判廷における供述とは、趣旨を異にしているところ、弁護士は、後記のとおり、自白を内容とする9・1付員面はもとより不利益事実の承認を内容とするその余の員面、検面も、すべて任意性に欠けるものである旨主張しているので、以下、この点について検討することとする。
二 任意性に関する弁護人の主張
弁護人は、(一)被告人の捜査段階における警察官に対する供述調書は、(1)黙秘権や弁護人選任権の告知がないまま、(2)威嚇、暴行、脅迫、不当な差別待遇のもとに、(3)捜査官の創作により読み聞けもされずに作成されたものであり、また、(二)検察官に対する供述調書も、警察官による不当・違法な圧力の影響を遮断する努力を怠った状態のまま、被告人に対し終始冷淡な態度をとり続け、その反論を無視し、供述のニュアンスを変えて作成されたものであって、いずれも任意性がないことが明らかであると主張している。
二 被告人に対する取調べ及び供述調書作成の各経過の概要
関係証拠(特に、被告人、証人H、同G及び同Nの当公判廷における各供述、留置人名簿並びに留置人出入簿〈ただし、上尾警察署長の捜査関係事項照会回答書添付のもの〉など)によると、被告人に対する取調べの経過の概要は、次のとおりであったと認められる。すなわち、
1 上尾署の捜査員(Hら)は、かねて発付を得ていた被告人に対する逮捕状(本件共同譲受けの事実に関するもの)を携えて、平成元年九月一日午前一一時半ころ被告人方に赴き、在宅した被告人に対し、逮捕状を示して逮捕する旨告げた上、直ちに身柄を上尾署に押送し、同日午後四時ころ、同署に到着した。
2 Hは、直ちに同署補導室で、被告人から弁解を聴取して弁解録取書を作成するとともに、事実関係に関する簡単な供述調書を作成したが(右供述調書は、前記のとおり、簡略ながら、共同譲受けの事実を認める趣旨のものである。)、その前後いずれかの時点で、被告人の同意を得て採尿することとし、同署便所内で容器に排尿した被告人から、右尿の任意提出を受けた。
3 翌九月二日、検察官に身柄を送致された被告人は、検察官の弁解聴取に対し、譲受けの事実を否定する陳述をし、その直後の勾留質問でも、同旨の陳述をした(なお、右弁解録取書及び勾留質問調書は、証拠申請されていない。)
4 同月四日午前中、Hは約一時間半にわたり被告人を取り調べたが、被告人が事実関係を否定するので、簡単な身上関係の調書のみを作成した(右供述調書は、弁護人が不同意の意見を述べたため、検察官が申請を撤回した。)。
5 同月七日午前中約二時間半の取調べにより、Hは、事実関係に関する一四枚の供述調書を作成した。
6 その翌日(同月八日)、浦和地検のM検察官(以下、「M検事」という。)は、約一時間ないし二時間の時間をかけて被告人を取り調べ、事実関係に関する実質一六枚の詳細な供述調書を作成した。
7 同月一三日午前中、約二〇分にわたり保安課のO警察官が、同月一四日午後、一時間弱にわたり前記Gが、また、同月一八日午前中約三〇分間再びGが、それぞれ被告人に対する取調べを行ったが、右各取調べの際は、供述調書は作成されていない。
8 同月一九日、Oが、午前中約二時間にわたって被告人を取り調べ、実質三枚の供述調書を作成した。
9 同月二〇日、M検事は、再び被告人を取り調べ、約一時間ないし時間をかけて、実質九枚の供述調書を作成した。
四 被告人の警察官に対する供述調書の任意性について
1 取調べの経過に関する被告人の供述の要旨は、概ね、弁護人が、最終弁論において、詳細に指摘しているとおりであるが(弁論要旨五三頁ないし六六頁)、念のため要点を掲げておくと、まず、黙秘権、弁護人選任権の告知状況に関するそれは、
(1)警察官の取調べ(弁解録取の手続を含む。)においては、取調べ期間中、黙秘権を告げられたことは一度もなかった。
(2)警察官からは、弁護人選任権も告げられていない。Hからは、九月一日に上尾署で、「弁護士は必要ないな。」「いらないな。」「頼まないな。」などと言われただけである。
(3)もっとも、九月二日の検察官(P副検事)の弁解録取及び九月八日の検察官(M検事)の取調べにおいては、黙秘権及び弁護人選任権の告知を受けた。
(4)接見禁止はついていなかったのに、しばらくは母に手紙も書かせてもらえず、「書かして下さい。」と頼んでも、「今は忙しいから。」と言われ、封筒や便せんをもらえなかった。
(5)起訴される少し前に、ようやく母に電話することを許された。母は、私が覚せい剤をやっていると思い込んでいたので、「やっていないし、尿からも出ていない。」と訴えると、Gが受話器をとって、「お母さん、弁護士頼んでも今回は駄目ですよ。」「終るまでに一○○万以上かかるし、助からないですから。」と言って、電話を切ってしまった。
というものであり、次に、取調べ状況及び供述調書作成状況に関するそれは、
(6)逮捕当日、上尾署へ押送される車中及び上尾署において、警察官から「否認するな。」「否認するんだったら面倒見ない。」「今回は検事が怒っているからよく謝れ。」「今回は、五月の件も起訴する。」「どうせこの件で否認しても、前の尿から出ているから、それで起訴するから。」「どっちみち、今度は二つを起訴されて重くなる。」「否認したら重くなる。」「どんなにしても実刑だ。」などと言われた。
(7)九月一日、逮捕の現場においても、Hの取調べの際も、譲受けの事実を否認したが、Hは、ほとんどこちらの事情を聞かないまま、しかも、私の述べたこととはちがう事実を記載し、読み聞けもしないで署名指印を求めた。自分は、Aが捕まればわかることと思い、撤回する力もなかったので、言われるまま署名指印した。
(8)九月七日、Hの取調べの際、タバコを吸わせてもらっていたが、やってきたGに、吸っているタバコを取り上げられて消されてじまい、その際、プラスチック製の定規で頭をはたかれた。当日の調書についても、読み聞けはなかった。
(9)九月八日、M検事は、頭から私が嘘をついていると決めつけ、何か言おうとしても、「いいから、いいから、そうむきにならないで。」と言って弁解を聞かず、警察調書をめくりながら調書を作成した。調書は読み聞かせてもらったが、検事が弁解を全然受けつけてくれなかったので、警察と検事はつるんでいると思ってあきらめ、署名指印した。右調書にも、私が実際言っていないことがいくつも挿入されている。
(10)Gは、調書は作成していないが、一〇日間位の間に三回位私を取り調ベ、「認めれば一年位ですむ。」「どっちみち起訴されるから認めろ。」「検事さんも、認めれば一年位で済ましてくれると言っている。」「俺はお前のことを思って言っているんだ。」「母親が認めろと言っている。」「いわきに帰って来たら再逮捕があるから、こっち(上尾市)で全部終らせて、上尾署から刑務所に行かせてくれというようなことを母親が言っている。」「母親は、私(被告人)がいなくても、一家だんらん夕食をおいしく食べている。」などと言って自白を迫った。
(11)運動の時にも、タバコは吸わせてもらえず、便秘薬の箱にマジックで、「梅毒、アホ、馬鹿、うそつき、死ね」などと書かれ、仮歯が取れてしまったので、歯医者に連れていって欲しいと頼んでも、連れていってもらえなかった。
(12)また、Gには、「お前が否認するんだったら、お母さんをこっちまで呼んで調書を取る。」「お前が認めるんだったら、お母さんも大変だから向うに行って調書取るけど。」「認めないんだったら、近所、私の周りの人に、調ベて歩く。」「親がかわいそうだろう。」「俺たちは、別に構わないんだから。」などとも言われた。
などというものである。
2 これらの点に関するH、G、M各証言は、概ね、右供述を否定し、取調べは適正に行われたもので、黙秘権・弁護人選任権の告知をしたのはもちろんであり、被告人の言うような不当な言動に及んだことはなく、各供述調書は、いずれも読み聞けの上被告人の署名指印を得たものであるとするものである。
3 被疑者の取調べは、取調室という密室内で行われるので、その状況を知るものは、原則として、当該被疑者と取調官及びその補助者以外にはいない。従って、かりに密室内で違法・不当な取調べが行われたとしても、もし捜査官側が、口を合わせてこれを否定する供述をする限り、被告人が自らの供述のみによって、違法・不当な取調べの存在を立証することは、容易なことではない。しかし、このように、被告人側を、ほとんど防禦の方法を与えないに等しい状況のもとに置きながら、その供述か捜査官の供述と抵触し他にこれを支えるべき証拠がないというだけの理由により、これを排斥するのは相当でない。このような事実認定の方法が許されることになると、密室内において行われた不正義(違法・不当な取調べ)を被告人側が自白のもとにさらすことができないまま、無実の被告人が不当に処罰されるという事態の発生を防止し得ないと思われるからである。近時、そのような問題意識に基づき、「捜査の可視化」が提唱され、少なくとも、被疑者の取調べ時間等については、留置人出入簿等の簿冊類により比較的容易に把握し得るようになったが、それ以上の可視化(例えば、取調べ状況のテープ録音、弁護人の立会の許可等)の提案は、捜査官側に容易に受け容れられそうもない。そこで、現状においては、従前どおり、取調べ状況に関する被告人及び取調官の各供述を対比し、その信用性を比較的検討するほかないのであるが、もともと、自白の任意性については、これに疑いがないことについても、訴追側が立証責任を負担しているのに、捜査官において、取調べが適正に行われたことを客観的に明らかにすべき可視化の方策を講じていないことなどにかんがみ、右各供述の信用性の比較検討は、特に慎重、かつ、厳密に行う必要がある。
4 そこで、右の前提のもとに、本件における被告人と捜査官の各供述を比較してみるのに、被告人の供述は、前記のとおり甚だ具体的で一貫性があり、その内容もかなり特異であって、被告人が、体験もしないのにこれをねつ造して供述するのは、困難ではないかと考えられる上、取調べの経過の概略は、のちに取り調べられた留置人出入簿等客観的証拠によっても裏付けられており、その他の部分の中にも、一部関係者の供述に裏付けられているものがある(例えば、前記(5)の母との電話でのやりとりは、Qの証言とほぼ符合している。また、(4)の母との往信を妨害されたとの点につき、H証言は歯切れが悪いが、一部これを裏付ける趣旨にとれないわけではないし、N証言に現れた捜査官側の態度によっても首肯されるところである。)。
5 次に、右被告人の供述を否定する捜査官の供述について考えてみるのに、警察官が、被疑者の供述をろくに聴取もしないで勝手に調書を作成し、読み聞けもしないで署名押印を迫るとか、黙秘権や弁護人選任権の告知もしないで取調べを行うなどということは、わが国の警察官の一般的水準からみて、あり得ないことのように考えられないことはなく、そのような違法行為を否定するH・G証言は、一見高度の信用性を有するようにも思われる。しかし、前記第三、二ないし四において詳細に指摘したとおり、本件の捜査・公判の各過程において、上尾署の捜査員は、一見常識的には考えられないような重要な違法(採尿関係の書類の破棄・隠匿、鑑定嘱託の有無についての検察官への虚偽報告、事後新たに作成した採尿報告書への虚偽記載など)をあえて行っているかその疑いが強いのであって、このような違法をあえて行う捜査員の行動については、前記のようなわが国の捜査官の一般的水準を前提とした常識的な判断は、必ずしも妥当しない。従って、被告人の供述を否定するH・G証言が、一見常識に合致するように思われるということから、右各証言の信用性が高いと考えることはできない。
6 また、本件捜査に関する前記第三、二記載の特異な事実関係を前提とすると、被告人の供述に現れた捜査官の異常な自白しょうよう行為は、決してあり得ないものではないように思われる。すなわち、上尾署の捜査員は、前回(平成元年五月)の検挙事実につき、被告人が言い逃れをして不当に処罰を免れたと考え、被告人の再逮捕に執念を燃やした末、七月七日に被告人が釈放されたのち約一月の間に、何度も、本来の管轄区域外の遠隔地にある被告人方を訪れたり、電話で探りを入れたりして情報収集につとめたが、遂に、本件当日(八月六日)に被告人が若い男性を伴って、覚せい剤の密売人であるB方を訪れた事実を突き止め、同人の供述に基づき被告人を逮捕するに至ったものであって、被告人を覚せい剤事犯の常習者と確信する捜査当局の目からみれば、B方へAと同道した事実を認めながら、譲受けの事実を頑強に否定する被告人の供述が、証拠上明白な事実に異を唱える虚構のものに思えたとしても、不思議ではない。そして、このようにして、捜査官が、被告人に対し確固とした黒の心証を抱いてしまうと、右心証と抵触する被告人の弁解を虚構のものとして一蹴し、被告人の供述に謙虚に耳を傾けることなく、ただ、やみくもに自白のしょうように走るということは、大いに考えられるところである。本件においても、H・Gらが、右のような心理に支配され、前回の無念さを晴らしたいとの気持も手伝って、被告人の供述するような不当な言動により、自白のしょうように走った疑いは、これを否定することができないというべきである。
7 以上の検討によると、被告人に対する上尾署捜査員の取調べは、被告人の供述するような違法・不当な方法で行われた疑いがあるといわなければならず、その結果作成された員面は、いずれも、任意性に疑いがあるものとして、証拠能力を否定されるべきである。
8 もっとも、右の結論に対しては、当裁判所の事実認定を前提としても、法律論として、なお異論を唱える向きがあるかもしれない。例えば、(1)黙秘権の告知の欠如については、黙秘権を告知しなかったからといって、直ちに自白の任意性を疑うべきではなく、特に、被告人が、既に刑事裁判の経験を二度も有し、被疑者に黙秘権があることを知悉していたとみられる本件では、右告知の欠如は、供述の任意性に影響せず、また、被告人に対し、九月二日には、検察官及び裁判官から黙秘権告知が適切に行われているのであるから、少なくとも、同日以降に作成された員面については、黙秘権不告知が供述の任意性に影響することはあり得ないとする反論が考えられ、また、(2)弁護人選任権の不告知については、被告人の供述に現れたHの言によっても、不十分ながら弁護人選任権の告知がされたとみるべきであるということのほか、黙秘権の場合と同様、被告人が右権利を知悉していたこと及び検察官による右権利の告知による瑕疵の治癒などが主張され得ると思われる。更に(3)被告人の供述に現れた捜査官のその余の言動は、必ずしも適当ではないにしても、このことから直ちに供述の任意性に影響を及ぼす程のものではないとの見方とか、(4)このような取調べにもかかわらず、被告人は、九月二日以降は、被疑事実である覚せい剤譲受けの事実を否認しているのであるから、少なくとも、右否認供述と取調官の前記の言動との間に因果関係はないとの見解なども、あり得ないではないと思われる。
9 そこで、以下、これらの見解についての検討を示しておくと、まず、反論(1)については、確かに、黙秘権の告知がなかったからといって、そのことから直ちに、その後の被疑者の供述の全ての任意性が否定されることにはならないが、被疑者の黙秘権は、憲法三八条一項に由来する刑事訴訟法上の基本的、かつ、重要な権利であるから(同法一九八条二項)、これを無視するような取調べが許されないことも当然である。そして、刑訴法は、捜査官による被疑者の取調べの必要と被疑者の右権利の保障の調和を図るため(すなわち、取調べによる心理的圧迫から被疑者を解放するとともに、取調官に対しても、これによって、取調べが行きすぎにならないよう自省・自戒させるため)、黙秘権告知を取調官に義務づけたのであって、一般に、右告知が取調べの機会を異にする毎に必要であると解されているのは、そのためである。従って、本件におけるように、警察官による黙秘権告知が、取調べ期間中一度もされなかったと疑われる事案においては、右黙秘権不告知の事実は、取調べにあたる警察官に、被疑者の黙秘権を尊重しよとする基本的態度がなかったことを象徴するものとして、また、黙秘権告知を受けることによる被疑者の心理的圧迫の解放がなかったことを推認させる事情として、供述の任意性判断に重大な影響を及ぼすものといわなければならず、右のような観点からすれば、本件において、被告人が、検察官や裁判官からは黙秘権の告知を受けていることとか、これまでに刑事裁判を受けた経験があり黙秘権の存在を知っていたと認められることなどは、右の結論にさして重大な影響を与えないというべきである。
10 次に、前記反論(2)について考えるのに、被疑者の弁護人選任権は、刑訴法三〇条に基づく、やはり基本的、かつ、極めて重要な権利であるが、特に、身柄拘束中の被疑者のそれは、憲法三四条によって保障された憲法上の権利でもあって、最大限に尊重されなければならない。そして、刑訴法は、身柄拘束中の被疑者の弁護人選任権の右のような重要性にかんがみ、捜査官が被疑者を逮捕したり逮捕した被疑者を受け取ったときなどには、その都度必ず被疑者に弁護人選任権がある旨を告知させることとし(二〇三条一項、二〇四条一項)、更に、特定の弁護士を知らない被疑者に対しては、弁護士会を指定して弁護人の選任を申し出ることをも認めるとともに、右申出を受けた捜査機関に対し、弁護士会への通知義務をも定めるなどして(二〇九条、七八条)、被疑者の右権利行使に万一の支障の生じないように配慮しているのである。従って、右権利の告知は、当然のことながら、明確に、かつ、わかり易い表現でされなければならず、いやしくも、被疑者に右権利行使を躊躇させるようなニュアンスを感じさせるものであってはならない。そのような観点からみる限り、Hが被告人に告げたとされる弁護士は必要ないな。」いらないな。」などという言葉が、弁護人選任権告知の意味を持ち得ないことは明らかであろう。また、捜査官による右権利の不告知は、黙秘権不告知の場合と同様、当該捜査官に被疑者の弁護人選任権を尊重しようという気持がなかったことを推認させる。そして、本件においては、現実にも、被告人の弁護人選任の動きを積極的に妨害するような(又は、そう思われても仕方のない)不当な言動があった疑いのあることは、前記(四1(5)、6)のとおりである。このようにみてくると、被告人に対し、検察官や裁判官からは弁護人選任権の告知があったこと及び被告人が右権利の存在を現に知っていたことを考慮しても、Hら警察官の右権利不告知及びその後の言動は、被告人の警察官に処する供述の任意性を疑わせる重大な事由であるというべきである。
11 次に、前記反論(3)に対する再反論は、いっそう容易である。被告人の供述に現れたHやGらの言動の中には、前記四1(12)のように、明らかに被告人に対する脅迫とみられるものもある上(被告人が、母親の信頼を裏切る結果となったことを心苦しく思っていたことは容易に推察されるから、そのような被告人にとって、母親が更に上尾署まで呼び出されて取り調べを受けるという事態は、かなりの心理的重圧であったと思われるし、更に、近所の人の取調をも行われるということは、堪え難いことであったであろう。)、同1(6)(10)の母親の言を伝えるものは、偽計にあたる疑いが強い。その他、右(6)(10)記載のその余の一連の言動は、それが文言どおりの意味では、直ちに脅迫、偽計にあたらないとしても、被疑者を不当に落胆させ、また、事実を認めれば本当に刑を軽くしてもらえるのではないかと思い込ませる効果を有する、甚だ適切を欠くものであったといわなければならず、前記脅迫、偽計とみられるしょうよう行為とあいまち、供述の任意性に重大な影響を及ぼすというべきである。
12 最後に、前記反論(4)について考えると、確かに、被告人は、九月二日の取調べ以降、警察官に対しても検察官に対しても、自らの譲受けの事実を否認する供述をしているが、AをB方に案内したのは、覚せい剤の譲受けを希望するAをBに紹介してやるためであったとする点で、譲受けの事実の認定上も不利益に働き得る事実を認めたとされているのであり、右供述が、前記のような警察官の違法・不当な一連の取調べによって引き出されたものであるから、右供述と警察官の言動との間には、もとより因果関係の存在を否定することができないというべきである。
13 以上、詳細に検討したとおり、右反論(1)ないし(4)は、いずれも前記7記載の結論を左右するものではあり得ない。従って、被告人の警察官に対する各供述調書は、前記7記載のとおり、いずれもその任意性に疑いがあるというべきである。
五 被告人の検察官に対する供述調書の任意性について
1一般に、被疑者の警察官に対する供述調書の任意性に疑いがあるときは、検察官において、被疑者に対する警察官の取調べの影響を遮断するための特段の措置を講じ、右影響が遮断されたと認められない限り、その後に作成された検察官に対する供述調書の任意性にも、原則として疑いをさしはさむべきである。なぜなら、一般の被疑者にとっては、警察官と検察官の区別及びその相互の関係を明確に理解することは難しく、むしろ両者は一体のものと考えるのが通常であり(本件被告人は、これまでの経験により、両者の関係を一応理解していたとみられるのに、検察官の態度から、両者は「つるんでいる」と考えたという。)、特に、被疑者が、検察官への送致の前後を通じ、起訴前の身柄拘束の全期間中、代用監獄である警察の留置場に身柄を拘束されている本件のような事案においては、単に取調べの主体が警察官から検察官に交代したというだけでは、警察官の取調べによって被疑者の心理に植えつけられた影響が払拭されるとは考えられず、右影響を排除するためには、検察官による特段の措置(例えば、被疑者の訴えを手がかりに調査を遂げて、警察官による違法・不当な言動を発見し、警察官に対し厳重な注意を与えるとともに、身柄を拘置所へ移監するなどした上で、被疑者に対し、今後は、そのような違法が行われ得ない旨告げてその旨確信させ、自由な気持で供述できるような環境を整備することなど)が必要であると考えられるからである。
2 そこで、右の見解のもとに、本件におけるM検事の取調べの態度・方法について検討するのに、まず、同検事は、警察段階と異なり、被告人に対し、黙秘権及び弁護人選任権は、これを告知したと認められるが、右は、法律上要求される当然の義務を尽くしたというにすぎず、これだけでは、前記の意味における特段の措置を講じたことにならないのは、当然のことである。そして、同検事は、その取調べを行った当時、警察官が前記のような違法・不当な言動に出ていることに気付いておらず、これを是正すべき措置を何ら講じていないのであるから、そのことだけから考えても、被告人の検察官に対する本件各供述調書の任意性を肯定することは困難であるといわなければならない。
3 のみならず、被告人の供述によると、同検事は、警察の調書をめくりながら取り調べ、被告人が事実がちがうと訴えても、「いいから、いいから、そうむきにならないで。」などといって、まともに取り合ってくれなかったとされている。もっとも、右の点につき、同検事は、これを否定するとともに、むしろ、警察の調書は予めメモを取り、これを頭に入れておいた上で、右調書を離れて、被告人に事実関係を順次確認しては、その都度調書にまとめていったものであり、「警察で何か不満とか、殴られたり蹴られたりとか、調べが強かったということはないか。」とも聞いている旨証言している。当裁判所は、かりに同検事が、右のような取調べ方法をとったとしても、結局のところ、警察の違法を探知・是正することができなかった以上、検察官調書の任意性に関する結論に変りはないと考えるものであるが、同検事の右証言は、(1)前回(平成元年五月)の事件で、被告人の尿中から覚せい剤が検出されながら、結局、被告人を起訴に持ち込めなかった点で同検事が悔しい思いをしていた旨認めていること、(2)前回の事件を含む一連の捜査の経緯に照らし、同検事は、本件に関し被告人が虚偽の弁解を言い張っていると確信していた疑いが強いこと、(3)同検事は、せいぜい一、二時間以内の取調べ時間中、所用で中座したり電話で取調べを中断したことがたびたびあった旨認めており、取調べが落ち着いた雰囲気のもとに行われたものでなかったと認められるのに、右取調べにおいて作成された供述調書は、実質一六枚又は九枚というかなりの分量のものであること、(4)九月八日付検面の冒頭には、被告人の警察段階の供述に変遷があるのに、「詳しいことは、刑事さんに話して調書に取ってもらったとおりです。」との記載があること、(5)取調べ状況に関する被告人の供述は、前記三記載のとおり、全体として、信用性が高いと認められることなどの諸点に照らし、これを全面的に信用することはできず、少なくとも、同検事の取調べ方法が、被告人の弁解に謙虚に耳を傾け、警察での取調べにおいて違法・不当な手段が用いられていないかどうかを真剣に聞き出そうとする態度に欠けるものであったことは、これを否定すべくもないと考えられる。
4以上の理由により、当裁判所は、被告人の検察官に対する各供述調書も、その任意性に疑いがあるものとして、証拠能力を否定されるべきであると解する。
六 Nの警察官に対する供述調書について
1 検察官が、刑事訴訟法三二八条所定の書面として申請したNの員面に対しては、弁護人が、右は、Nの供述に基づかない単なる捜査官の作文にすぎないとの理由で取調べに異議を述べたが、当裁判所は、弁論終結前の段階で、Nと捜査官の各証言の信用性につき裁判所の最終的な見解を示すのは妥当でないと考え、最終判断を留保した上で、ひとまずこれを取り調べた。
2 右Nの員面中に、同人の公判証言と一部矛盾する記載(被告人が、警察に尿を取られたから逃げたいと言って、東京の叔父さんのところに二日くらい行ったとの部分)が存することは、検察官の指摘するとおりである。しかし、右の点につき、Nは、公判廷において、警察官に対し右のような供述をしたことはないと思うとして、自分が述べたことと異なる趣旨の供述調書に署名・指印してしまった理由について詳細な供述をしているところ、右供述に現れた警察官の言動は、既に指摘した本件捜査に関する警察官の一連の違法・不当ないし不明朗な行動を前提として考えると、十分あり得ることと思われるので、右証言の信用性は、にわかに否定し難いといわなければならない。
3 そうすると、Nの員面中証言と矛盾する部分は、同女が供述調書に任意に署名・指印したため、これを同女の供述でないとまではいえないにしても、その信用性には疑いを抱かざるを得ず、いずれにしても、同女の公判証言を弾劾するものとして、さしたる証拠価値があるとは思われない。
4 従って、右Nの員面は、本件公訴事実の存否の判断において、これを重視する必要のないものである。」
5 解説(判例タイムズ760号261頁)
「一、本件の訴因事実は、「被告人が、甲と共謀の上、乙から覚せい剤約1グラムを代金2万円で譲り受けた」という覚せい剤の共同譲受けの事実であったところ、被告人は、公判廷において、「甲に頼まれて、同人を覚せい剤を密売している乙方へ案内し事実上両名を引き合わせ、その後の覚せい剤の取引現場にも同席したこと」を認めたが、右取引は甲と乙の間で行われたもので、自分はこれに関与しておらず、甲を案内する際にも、同人の覚せい剤譲受けの意図を知らなかったので、甲と譲受けを共謀したこともない旨弁解した。
ところで、本件において、検察官が訴因事実を立証すべき証拠として提出した主要なものは、(1)右甲、乙の各証言、(2)被告人の逮捕直後における簡単な自白調書1通(その後の供述調書は、不利益事実の承認を内容とするもので、自白ではない。)、及び(3)本件取引の2日後にてから採取した尿の鑑定書であったため、弁護人は、右(1)の信用性を強く争う一方、(2)の任意性・信用性及び(3)の証拠能力及び証拠価値をも争った。
そして、裁判所は、捜査の過程、取調べ状況及び甲・乙の証言の内容を仔細に検討した末、 1 自白調書を含む被告人の捜査段階の供述調書の任意性を否定し、 2 甲・乙の各証言の信用性をも否定して共同譲受けの事実についての立証はないとしたが、 3 乙の尿鑑定書の証拠力及び証拠価値は否定できないとし、 4 被告人の公判供述を含むその余の証拠により明らかな事実と右尿鑑定書とにより、幇助の限度で被告人の刑責を肯定した。
このように、本件は、元来は単純でありふれた覚せい剤事犯ではあるが、自白の獲得経過等に問題があり、自白の任意性や共犯者の証言の信用性に関する本判決の詳細な判断内容には、注目すべきものが含まれている。
二、まず、本判決は、基本的事実関係及び争点を明らかにしたのち、「本件における特異な事実関係」として、捜査機関において、これまで再再検挙した被告人が、その都度結果として実刑判決を免れてしまったことに切歯扼腕し、2度目の執行猶予判決の直後から被告人の検挙に執念を燃やし、遂に本件により逮捕するに至ったこと、しかし、被告人から再度にわたって提出された尿からは、結局、覚せい剤反応が得られなかったため、右採尿・鑑定嘱託の事実を隠ペいしようとし、採尿関係の手続書類を破棄・隠匿した上、公判段階における検察官からの照会に対しても虚偽の報告をしたばかりでなく、証人として尋問を受けた際にも、右書類の紛失や虚偽報告が単なる過失であったと言い逃れしようとしている疑いが極めて強いと指摘する。
そして、本判決は、このような捜査官側の態度は、「被告人と捜査官の供述が対立する場面においては、捜査官側の供述の信用性を大きく減殺する事情として働く」とし、取調べ状況に関する被告人の供述の信用性を認め、捜査官の証言の信用性を否定した。
「取調べ状況の可視化」の提案がされて久しいが、右提案は捜査官側に容易に受け容れられそうもない。
本判決はこのような状況を踏まえた上で、取調べ状況に関する捜査官の証言の信用性を厳密に検討することにより、取調べ状況に関する何らかの可視化の方策を捜査機関が採用せざるを得ない状況を作出しようとの意図に基づくものともみられ、今後の捜査機関の対応が注目されよう。
なお、本判決は、捜査過程等における捜査官の違法とみられる行為を厳しく指摘しているが、このような違法行為が時にあり得るものであることは、過去の裁判例においても指摘されており(木谷「犯行と被告人との結びつきについて(上)」本誌748号30頁、特に34頁以下参照)、留意を要する点と思われる。
三、本判決は、被告人の供述調書の任意性を否定したが、その理由は、警察官が、逮捕以来、被告人に対し、黙秘権・弁護人選任権を告知しないまま、被告人の弁解に耳を傾けることなく、違法・不当な言動により取調べを行ったという点にあり、検事調書についても、検察官が、警察官の取調べの影響を遮断すべき特段の措置を講じていない以上、任意性否定の結論は変わらないとした。
黙秘権不告知の事実は、直ちに任意性を失わせるものではないとされているが(最判昭25・11・21刑集4巻11号2359頁)、本判決は、法が取調べにあたり黙秘権を告知すべき旨定めている理由の根本に遡り、警察官が取調べ期間中一度もこれを告知しなかったのは、被疑者の黙秘権を尊重しようとする気持ちのなかったことを示唆するものであると論じ、これを任意性否定の一根拠としたものである。
従前、黙秘権等不告知の事実を、このような観点から取り上げた先例は見当らないので、本判決の本判旨部分は、新たな議論を呼ぶことになろう。
なお、自白の任意性否定の一論拠として、黙秘権・弁護人選任権の告知方法の不適切の点を挙げた比較的最近の裁判例としては、浦和地判平1・3・22本誌698号83頁、判時1315号6頁(女店員嬰児殺事件)、浦和地判平2・10・12本誌743号69頁、判時1376号24頁(パキスタン人放火事件)がある。
四、甲・乙の各証言の信用性を否定した判旨部分も、事案に即した詳細な判断事例として参考になると思われるが、詳細は、判文に直接あたっていただきたい。
最後に、判旨三について触れておくと、本判決は、前記のとおり、共同譲受け罪の訴因事実を否定したが、訴因変更手続を経ることなく、譲受け幇助の限度で、被告人を有罪と認めた。
本判決自身も認めているように、判決が認定した幇助行為は、訴因事実と日時・場所・方法が厳密には一致しないから、訴因変更の基準に関する抽象的防禦説を前提とする限り、右認定には問題があり得ると思われる。
しかし、本判決は、判例が、具体的防禦説的考慮を相当程度取り入れており、共同正犯の訴因に対し幇助罪を認定するのに訴因変更手続を要しないとした判例も相当数蓄積されていること、本件においては、客観的に幇助に該当する被告人の行動は冒頭陳述中に明確に述べられていて、被告人も争っていないこと、幇助の意思の存否については、共謀を争う過程で十分防禦が尽くされていること、論告において、検察官が幇助罪の成立を指摘したのに対し、弁護人も、最終弁論において、これを明確に意識して無罪の弁論をしているが、訴因変更手続をせずに幇助の認定をすることが許されないとの主張はしておらず、裁判所の求釈明に対しても、幇助罪不成立の根拠は、被告人に幇助の意思がなかったことである旨応答していることなどを指摘し、幇助の認定は被告人に不意打ちにならないので、幇助の限度で有罪立証がされている以上、同罪の認定を拒否するわけにはいかない旨判示した。
共同正犯の訴因に対し幇助の事実を認定するのに、訴因変更手続きを要しないとした最高裁の先例としては、(1)最2小判昭33・6・24刑集12巻9号2269頁、(2)最1小判昭29・1・21刑集8巻1号71頁があるが、比較的最近における下級審の裁判例にも同旨の見解を示したものが多数あり(例えば、(3)大阪地判昭58・11・30判時1123号141頁、(4)大阪地判昭58・12・15判時1123号141頁、(5)福岡地判昭59・8・30判時1152号182頁、(6)札幌高判昭60・3・20判時1169号157頁、(7)福岡高判昭61・9・11本誌625号238頁、(8)浦和地判平1・3・2判時1333号3頁など)、この点に関する実務の見解は、ほぼ固まったものとみられている。
その意味で、本判決の本判旨部分は、特にめずらしいものではないが、幇助罪の認定が被告人側に対し不意打ちとはならないよう、弁論の際に弁護人に注意を喚起する訴訟指揮をする等工夫のあとも見られ、実務上参考になると思われる。
五、本判決は、覚せい剤事犯の捜査にありがちな捜査の行きすぎに、強い警鐘を発したものとみられる。
本判決に対しては、検察官は控訴を申し立てなかったが、被告人側から控訴があったとの由である。」

