最高裁大法廷昭和45年11月25日刑集24巻12号1670頁・刑訴百選【11版】69事件(偽計自白)

1 はじめに

 本判例は、切り違え尋問、すなわち、共犯者がいる事件の取調べで、捜査機関が一方の被疑者に対し「もう一方がすでに自白している」という虚偽の事実を告げて自白を引き出し、その自白を根拠にして今度はもう一方の共犯者からも同様に自白を獲得していく尋問手法で得られた自白が偽計自白に当たるとして、証拠能力を否定した事例判例です。

2 前提となる知識

憲法38条2項
強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
刑訴法319条1項
強制、拷問又は脅迫による自白、不当に長く抑留又は拘禁された後の自白その他任意にされたものでない疑のある自白は、これを証拠とすることができない。

3 問題の所在

 「当初伏見警察署での取調では、被告人の妻Bは、自分の一存で本件拳銃等を買い受けかつ自宅に隠匿所持していたものである旨を供述し、被告人も、本件拳銃は妻Bが勝手に買ったもので、自分はそんなものは返せといっておいた旨を述べ、両名共被告人の犯行を否認していたものであるところ、その後京都地方検察庁における取調において、検察官増田光雄は、まず被告人に対し、実際はBがそのような自供をしていないのにかかわらず、同人が本件犯行につき被告人と共謀したことを自供した旨を告げて被告人を説得したところ、被告人が共謀を認めるに至ったので、被告人をBと交替させ、Bに対し、被告人が共謀を認めている旨を告げて説得すると、同人も共謀を認めたので直ちにその調書を取り、更に同人を被告人と交替させ、再度被告人に対しBも共謀を認めているがまちがいないかと確認したうえ、その調書を取り、被告人が勾留されている伏見警察署の警部補Aに対し、もう一度被告人を調べ直すよう指示し、同警部補が被告人を翌日取り調べた結果、所論主張の被告人の司法警察員に対する供述調書が作成された」

4 判旨

https://www.courts.go.jp/hanrei/50835/detail2/index.html

 「弁護人前堀政幸の上告趣意のうち、憲法違反を主張する点について。
 所論は、第一審判決の事実認定に用いられた被告人の司法警察員に対する供述調書(昭和40年11月9日付警部補A作成)中の被告人が妻Bと共謀して本件拳銃および実包を所持した旨の自白は、刑訴法319条1項の「その他任意にされたものでない疑のある自白」にあたり、証拠とすることができないものであるのにかかわらず、右自白に任意性があるとした原判決の判断は、憲法38条1、2項の解釈を誤り、憲法31条にも違反するというのである。
 よって検討するに、原判決が認定した所論供述調書の作成経過は、次のとおりである。すなわち、当初伏見警察署での取調では、被告人の妻Bは、自分の一存で本件拳銃等を買い受けかつ自宅に隠匿所持していたものである旨を供述し、被告人も、本件拳銃は妻Bが勝手に買ったもので、自分はそんなものは返せといっておいた旨を述べ、両名共被告人の犯行を否認していたものであるところ、その後京都地方検察庁における取調において、検察官増田光雄は、まず被告人に対し、実際はBがそのような自供をしていないのにかかわらず、同人が本件犯行につき被告人と共謀したことを自供した旨を告げて被告人を説得したところ、被告人が共謀を認めるに至ったので、被告人をBと交替させ、Bに対し、被告人が共謀を認めている旨を告げて説得すると、同人も共謀を認めたので直ちにその調書を取り、更に同人を被告人と交替させ、再度被告人に対しBも共謀を認めているがまちがいないかと確認したうえ、その調書を取り、被告人が勾留されている伏見警察署の警部補Aに対し、もう一度被告人を調べ直すよう指示し、同警部補が被告人を翌日取り調べた結果、所論主張の被告人の司法警察員に対する供述調書が作成された、というのである。
 思うに、捜査手続といえども、憲法の保障下にある刑事手続の一環である以上、刑訴法1条所定の精神に則り、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ適正に行なわれるべきものであることにかんがみれば、捜査官が被疑者を取り調べるにあたり偽計を用いて被疑者を錯誤に陥れ自白を獲得するような尋問方法を厳に避けるべきであることはいうまでもないところであるが、もしも偽計によつて被疑者が心理的強制を受け、その結果虚偽の自白が誘発されるおそれのある場合には、右の自白はその任意性に疑いがあるものとして、証拠能力を否定すべきであり、このような自白を証拠に採用することは、刑訴法319条1項の規定に違反し、ひいては憲法38条2項にも違反するものといわなければならない。
 これを本件についてみると、原判決が認定した前記事実のほかに、増田検察官が、被告人の取調にあたり、「奥さんは自供している。誰がみても奥さんが独断で買わん。参考人の供述もある。こんな事で2人共処罰される事はない。男らしく云うたらどうか。」と説得した事実のあることも記録上うかがわれ、すでに妻が自己の単独犯行であると述べている本件被疑事実につき、同検察官は被告人に対し、前示のような偽計を用いたうえ、もし被告人が共謀の点を認めれば被告人のみが処罰され妻は処罰を免れることがあるかも知れない旨を暗示した疑いがある。要するに、本件においては前記のような偽計によつて被疑者が心理的強制を受け、虚偽の自白が誘発されるおそれのある疑いが濃厚であり、もしそうであるとするならば、前記尋問によつて得られた被告人の検察官に対する自白およびその影響下に作成された司法警察員に対する自白調書は、いずれも任意性に疑いがあるものといわなければならない。
 しかるに、原判決は、これらの点を検討することなく、たやすく、本件においては虚偽の自白を誘発するおそれのある事情が何ら認められないとして、被告人の前記各自白の任意性を認め、被告人の司法警察員に対する供述調書を証拠として被告人を有罪とした第一審判決を是認しているのであるから、審理不尽の違法があり、これを破棄しなければいちじるしく正義に反するものというべきである。よって、その余の上告論旨について判断するまでもなく、刑訴法411条1号により原判決を破棄し、さらに審理を尽くさせるため、同法413条本文により本件を原裁判所に差し戻すこととし、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
 裁判官松田二郎は、退官のため評議に関与しない。」

5 解説(判例タイムズ256号95頁)

 「一審が認定した罪となるべき事実は、「被告人は、法定の除外事由がないのに妻貞子と共謀し、 第一、昭和38年10月頃から、昭和40年11月1日頃までの間、被告人肩書住居において、14年式旧軍用拳銃一挺を隠匿所持し、 第二、前記期間中、前記住居において、火薬類である拳銃実包3発を隠匿所持していたものである」というものであり、右判文からすれば、いかにも被告人が実行正犯であるかのようにみえるが、現実に拳銃等を購入して所持していたのは妻貞子であって、被告人は共謀共同正犯の責任があると認定されたのであった(貞子は不起訴)。
 ところで、一審が右認定に用いた証拠の標目中「共謀」に関するものは「司法警察員に対する被告人の供述調書」すなわち本件上告審判決中に「昭和40年11月9日付警部補福島信義作成」とある供述調書(共謀したことを自白)だけであつた(萩原太郎「偽計による自白」証拠法大系II自白100頁に、本件一審判決が「その証拠として、被告人の検察官に対する供述調書(刑訴法322条1項による)、S子の検察官に対する供述調書(同321条1項2号後段による)等を挙示した」とあるが、誤りである。
 一審は、右各供述調書を証拠として取り調べはしたが、証拠の標目としては挙示していない。)。 一審の公判廷では、貞子は自己の単独犯行であると証言し、被告人は共謀を否認したので、当然前記の司法警察員調書の存在が問題となるわけであるが、右貞子および検察官増田光雄の証言によれば、同検察官は、取調にあたり、まず被告人に対し、貞子が被告人と共謀したことを自供したとうそを言つて被告人をそう思わせ、被告人が共謀を認めると、今度は貞子に対し被告人が共謀を認めていると告げて、貞子からもその共謀した旨の供述を獲得し(弁護人のいわゆる「切り違え尋問」)、福島警部補に被告人を調べ直すよう指示した結果、作成されたのが前記の調書であることが明らかとなつた。
 弁護人は、このような偽計を用いる取調方法は違法であり、その結果得られた被告人の供述(共謀に関する自白)は任意性がない、と主張したが、二審の大阪高裁は、「偽計を用いた尋問方法は決して望ましいものではないにしても、単に偽計を用いたという理由のみでこれを違法視することはできない。
ただし、頑強に否認する被疑者に対しては事案の真相を明らかにするためかかる尋問方法を用いることもやむをえない場合があり、偽計を用いて被疑者を錯誤に陥れたとしてもそれによつて得られた自白は自白の動機に錯誤があるに止まり虚偽の自白を誘発する蓋然性は少ないからである。
換言すれば、偽計に虚偽の自白を誘発する蓋然性の大きい他の要素が加わった場合にのみ、よって得された自白は任意性なきものとして排除されるべきである。
ところで、本件において検察官が用いた弁護人の所謂切り違え尋問は、《中略》成程偽計を用いたものではあるけれども、他に虚偽の自白を誘発する虞のある事情は何ら認められないから、右尋問により得られた被告人及びその妻貞子の自白は何れも任意性があるものと認められる。
 従って《中略》これに引続き伏見警察署において福島警部補に対してなされた被告人の自白も他に特段の事情の認められない以上任意になされたものと認めるのが相当である。」(詳細は判例時報503号81頁掲載の判文参照)として、弁護人の主張をしりぞけた。
これは従来の伝統的な虚偽排除説によったものと思われる。
 これに対し、最高裁大法廷は、裁判官全員一致の見解で、「偽計による自白」の証拠能力につき判断を示したうえ、原審に審理不尽の違法があるとし破棄差戻の判決をした。
 従来「偽計による自白」の証拠能力については説が分かれ、刑訴法における未解決の最も重要な問題のひとつであるといっても過言ではなかった。
 本判決は、傍論ながら捜査手続にも適正手続(デュー・プロセス)の原則の働くことを明示し、偽計を用いて被疑者を錯誤に陥れ自白を獲得するような尋問方法を厳重に戒めたことがまず何より注目される。
 次に偽計によって心理的強制を受け虚偽の自白が誘発されるおそれのある場合には、偽計によって獲得された自白は任意性に疑いがあり、このような自白の採用は憲法38条2項違反(刑訴法319条2項違反はもとより)であることを明言した点がきわめて重要である。
 判文は簡潔であり、その基調についてはなお論議の余地があると思われるが、最高裁は本判決により、従来の虚偽排除説をとりながらも、人権擁護説ないし違法排除説の方向に一歩踏み出したと解することができるのではないであろうか。
 本件の二審判決に対する論評として、前掲萩原太郎「偽計による自白」(証拠法大系自白100頁以下)、上告審判決に対する論評として、田宮裕「生きかえった自白法則--違法排除への黎明」(ジュリスト470号104頁以下)があり、本判決の学説判例史上の意義を理解するのに参考になる。」

6 参考裁判例(大津地裁令和2年3月31日判例時報2445号3頁・刑訴百選【11版】69事件解説4・湖東記念病院事件再審無罪判決)

⑴事案

 看護助手が慢性呼吸不全等による重篤な症状で入院加療中のA(当時72歳)に対し殺意をもって人工呼吸器の管を引き抜き酸素供給を遮断して急性低酸素状態により死亡させて殺害したものと認定した確定判決が依拠したC鑑定等は、上記管の抜去以外の死因を排除する合理的な理由を示しておらず、その管が外れていたという真偽が疑わしい、解剖所見外の事情を前提条件としており、結論との整合性に疑問がある事実も存在するなど、その死因に関する判断部分は信用できず、被告人の捜査段階の自白供述も、取調警察官が同人に対する被告人の恋愛感情や迎合的な供述態度に乗じ得たもので信用性がなく、任意性に疑いがあるとして証拠排除し、被告人の自白供述を除くとAの死因が上記管の意図的な抜去による酸素供給遮断であると認めるに足りる証拠はないとして、無罪を言い渡した事例(いわゆる湖東記念病院事件再審無罪判決)判決です。

⑵判旨(任意性に関する部分のみ)

 「2 自白の任意性について
 (1) 「任意にされたものでない疑」の意義及び判断の在り方
 被告人が作成した供述書及び被告人の供述を録取した書面であって,被告人の自白や不利益事実の承認を内容とするものは,「任意にされたものでない疑」があると認めるときは証拠とすることができない(刑訴法322条1項)。そして,刑訴法は,任意にされたものでない疑いがある自白の例として,強制,拷問又は脅迫による自白,不当に長く抑留又は拘禁された後の自白を列挙しているが(同法319条1項),典型的な場合の例示列挙にすぎず,上記疑いがあるとされるのは,これらの場合に限られるものではない。
 「任意にされたものでない疑」がある場合に該当するか否かについては,任意性のない自白の証拠能力を否定すべき趣旨(人権擁護,違法排除,虚偽排除)を踏まえ,人権侵害及び捜査手続の違法・不当性の有無・程度を中心に据えた上,虚偽供述である可能性の点も付加して,総合的に検討・判断するのが相当である。より具体的には,①自白供述がされた経緯,過程における人権侵害の有無・程度,②捜査手続の違法・不当性の有無・程度に加え,③それらが当該自白供述に与えた影響の有無・程度(因果性),④それらの事情により虚偽供述が誘発されたおそれ等の事情を総合考慮して判断すべきである。そして,その際には,捜査機関側の事情のみならず,供述者側の事情,例えば,年齢,精神障害の有無・内容も考慮しつつ,具体的かつ実質的に判断すべきであり,外形的には自発的に供述されているかのように見える場合でも,実質的には,違法,不当な捜査手続等によって誘発されたものであるとして,任意性を否定すべき場合もあり得る。
 (2) 本件自白供述がされた経緯,背景等
 確定審及び当審における被告人の公判供述を除く関係証拠によれば,本件自白供述がされた経緯,背景等について,以下の事実が認められる。
 ア 初期段階の捜査経過
 本件の捜査は,当初,Aの死亡時に当直に当たっていたB看護師及び被告人を被疑者とする業務上過失致死事件として進められた。B看護師及び被告人は,任意の事情聴取において,いずれも本件呼吸器のアラームは鳴っていなかった旨供述していたが,捜査機関は,本件呼吸器の管が外れていた以上,アラームは鳴っていたはずであるとの見立てに基づき,両名に対する厳しい追及を続けた。そのような中,B看護師及び被告人は,精神的な不調を来し,被告人においては,平成15年7月11日にZ病院精神科を受診し,不安,軽度抑うつ気分などを症状とする適応障害と診断され,その後も断続的に通院するなどしていた(再弁64,65)。
 イ 任意捜査段階におけるF警察官の取調べ及び被告人の供述状況等
 被告人の取調べ担当官は,従前のM警察官からF警察官に変わり,平成16年5月10日,F警察官による初めての取調べが行われた。被告人は,同日の取調べにおいても,前記アと同様の厳しい追及を受け,当初は,否定していたものの,最終的には,アラームが鳴っていたことを認めるに至り,翌11日にはその旨の供述調書(地弁12)が作成された。
 被告人の取調べについては,その後も一貫してF警察官が担当することとなったが,被告人は,取調べが重ねられる中で,被告人の身の上話等にも耳を貸してくれるF警察官に次第に信頼と好意を寄せるようになり,同月24日から同年6月中旬にかけて,呼出しを受けてもいないのに,何度も警察署に出頭したり(地弁49),F警察官に宛てて書いた手紙(地弁28)を他の警察官に預けたりした。F警察官の気を惹こうと考えた被告人が,自殺未遂を装って,手首に包帯を巻いて警察署を訪れることもあった(F警察官の確定第1審における証言。以下「F証言」という。)。
 被告人の供述内容は,任意捜査の間を通じ,アラームの吹鳴の有無,本件呼吸器の管を外したのか外れたのか,アラームが吹鳴した後の行動など,複数の重要な点でめまぐるしい変遷を重ねた。
 ウ 被告人の特性とF警察官の認識
 (ア) ところで,被告人には,軽度知的障害,発達障害(注意欠如多動症)及び気分循環性障害が併存している。一般に,知的障害者は,権威者に依存する傾向があるほか,回答方法や範囲が限定された質問に対して誘導されやすい特性があるとされるところ,被告人にも同様の特性が認められる。
 また,被告人には,性格的な特徴として,愛着障害がある。生来の知的・発達障害のために目の前の出来事に捉われ,自分の言動がどのような結果を招来するのかに考えが及びにくい中,長年持ち続けていた劣等感と表裏一体をなす愛着障害に基づく強い承認欲求と相まって,迎合的な供述をする傾向がある(N医師作成の意見書〔再弁63〕。なお,同医師は,経験豊富な精神保健指定医であり,その専門的知見や公正さに問題はない上,前記判断は,直接被告人と複数回面談し,必要な諸検査を行った結果,合理的な判断過程を経て導かれた内容であるから,信用することができる。)。
 (イ) F警察官は,被告人の取調べの担当を引き継ぐ際に,前任のM警察官から,被告人は取調べ中に暴れたり,泣きわめいたりする大変な子である旨の引継ぎを受けていたほか,平成16年5月10日以降の上記のような経緯から,遅くとも同年6月下旬頃までには,被告人の迎合的な供述態度を認識するとともに,被告人が自身に好意と信頼を寄せ,その関心を惹くためにいくつもの嘘をついたことにも気付いていた(F証言)。
 エ 被告人による初めての殺害自白
 そのような中,被告人は,平成16年6月29日,おむつ交換をした際に,管が外れたように思ったが,確認せずに部屋を離れたなどとの,自己の過失を認める内容の供述書(地弁29)を作成し,同年7月2日には,F警察官に対し,本件呼吸器の管を引っ張り上げて外してAを殺害した旨の供述をし,その旨の供述調書(地弁15)が作成された。
 オ 捜査方針の転換とその後の捜査経過
 捜査機関は,被告人が,平成16年7月5日にも故意に管を外して殺害したとの供述を維持したこと等を踏まえ,以降,殺人被疑事件として捜査する方針を固め,同月6日,被告人を逮捕した。被告人は,同月8日,勾留され,接見等禁止が付された。
 捜査機関は,それまでの捜査等により,本件呼吸器自体には故障その他の異常がないことを確認していたほか,遅くとも同月10日までの間には,Aの入院していた病棟の他の入院患者やその家族等からの事情聴取などの結果,Aの死亡した頃にはアラームが鳴っていなかった事実を把握していた(再弁104)。
 このため,その後の捜査は,本件呼吸器の管が外されたのに,アラームが鳴らなかった理由,原因に焦点を当てて進められた。
 カ 弁護人の選任とその後の接見状況
 被告人は,両親の依頼により被告人を訪れた弁護士と接見し,平成16年7月8日に1名,同月9日に2名の弁護人を選任した。同月8日の初回接見において,被告人は,弁護人に対し,Aの死亡は事故であり,殺していない旨述べた(地弁40)。
 被告人は,翌9日以降も,ほぼ連日にわたり弁護人と接見した(なお,検察官による接見指定がされ,接見時間は,1回につき約1時間とされた。)。
 キ 初回接見以降の被告人の取調べ及び供述の状況等
 (ア) 被告人は,同月8日,初回接見後にF警察官の取調べを受け,その際,F警察官に対し,弁護士との接見において殺していない旨述べたことを伝えるとともに,弁護士さんが来た時に自分から逃げようと嘘をついてしまった旨の供述書(地弁40)を作成した。同日の取調べは,当初の予定時刻を超えて午後10時40分まで行われた(地弁4)。
 (イ) 被告人は,その後も,弁護人との接見時には,殺害を否定し,その直後のF警察官の取調べにおいても,同様に否認供述をすることが繰り返されたが,その都度,最終的には,F警察官の取調べで再度殺害を認める供述に転じ,自白調書が作成された。
 また,F警察官は,弁護人の接見が行われる度に,被告人から聴取するなどして,その内容を把握していた。接見の内容とともに弁護士には嘘をついた旨の供述が記載された調書や供述書(地弁18,43,44,45)が作成されることもあった。
 (ウ) 被告人は,同月14日頃及び同月22日頃,接見等禁止の一部解除決定を得て,両親からの手紙を受け取った。それらの手紙には,両親が弁護人を信頼しており,被告人にも弁護人を信頼してほしい旨が記載されていた。
 (エ) 被告人は,同月15日,F警察官と弁護士のどちらを信用したらよいのか分からない,いろいろなことを詳しく聞いてくれるF警察官の言うことを信用する旨記載した供述書(地弁47)を作成した。翌16日,検察官の取調べにおいては,殺害を否認したが,その後のF警察官の取調べにおいて,検察官の取調べで嘘をついた旨の供述書(地弁48)を作成し,再度自白に転じた。
 (オ) 被告人の逮捕後の供述調書や供述書には,「刑事さんは私を見捨てずに真剣になって私の話を聞き,私のことを考えてくれて,嬉しかった。」(地弁17:逮捕当日の警察官調書),「F警察官は親身になって事情を聴いてくれた。初めて私のことを理解しようとしてくれる人がいると思った。」(地弁21:逮捕翌日の検察官調書),「私のことでこんな真剣になってくれる人は初めてでした。刑事さん,私を見捨てないでください。こんな私を最後まで見守ってください。」(地乙6:同月17日の警察官調書),「なんでこんな私の為に一生けんめいしてくれるのだろう。本当にうれしい。こんな人ははじめてや。私はどうしたらいいんでしょう。」(再弁106:同日付の供述書)など,F警察官に対する恋愛感情や信頼感をうかがわせる記載が多数あるほか,「これから私は自分に自信が持てるように精一杯努力していき,これからの人生を楽しく行けるようにしていきたい。」(地弁38:逮捕翌日の供述書)など,殺人罪で逮捕された直後にもかかわらず,前向きな気持ちが記載されたものがある。
 (カ) 被告人の供述は,上記のとおり,弁護人との接見や両親から受け取った手紙等を契機に,幾度も否認と自白との間で揺れ動き,検察官の面前でも否認供述が述べられたこともあった。しかし,被告人の逮捕後には,起訴後に作成されたものも含めて30通に迫る警察官調書,検察官調書が作成されたにもかかわらず,1通たりとも否認調書は作成されなかった。また,被告人は,逮捕後のF警察官による取調べの中で,同人の面前で30通余りに上る供述書を作成しているが,そのほとんどはその前後において作成された供述調書とほぼ同じ内容のものであり,少なくとも本件再審公判手続までの間に検察官から弁護人に開示された逮捕後の供述書の中には,犯行を否認する内容のものは存在しない。
 (キ) 同月20日のF警察官による取調べにおいては,殺害を認める旨の詳細な供述調書が2通作成されたが,その日の午前の取調べにおいては,被告人は,「私の書いたもん(注:供述書のことを意味すると解される。)全部返して」と泣き叫び,F警察官の腕を掴んだり,勝手に退出しようとしたことがあった(再弁129)。
 ク 捜査の具体的な進捗状況と本件自白供述の供述経過等
 (ア) 平成16年7月10日午後3時45分から午後5時までの間に,本件病院の臨床工学技士の立会の下,本件呼吸器の実況見分が行われ,捜査機関において,アラームの消音状態維持機能を含む本件呼吸器の仕様等を把握した(地甲4)。
 (イ) 被告人は,同日,午後7時5分から午後11時25分までF警察官の取調べを受けた。その際,管を外した後,B看護師らに気づかれないよう,消音ボタンを押し続けて消音状態を維持しながらAが死んでいくのを待っていた旨の供述をし,その旨の供述調書が作成された(地乙3)。翌11日には,「消音ボタンを1回押せば1分の間,アラームの音は消え,私は,その度に消音ボタンを押してAさんの側でAさんが死んで行くのを待っていたのです。」との供述が記載された供述調書が作成された(地乙4)。
 (ウ) 被告人は同月12日,管を外した後,アラームが鳴る1分が経過する前に消音ボタンを押してAが死んでいく様子を見届けた,Aは眉間にしわを寄せ,口をはぐはぐして苦しそうにしていた,最後に,Aは目を大きく見開いて瞳が上の方に行って白目をむき,口を縦に大きく開いて本当に苦しそうに死んだ旨の供述をし,その旨の供述調書(地乙5)及び供述書(地乙23)が作成された。同月17日には,管を外した後,消音ボタンを押し続けてアラーム音を消しながらAの死んでいく姿を見ていた,その後,管を繋ぎ直し,管が外れていたことを示す赤ランプを消すために消音ボタンを押した旨の供述をし,その旨の供述調書(地乙6)が作成された。
 その後も,被告人は,同月25日の検察官の取調べに至るまで,管を外し,ピッと一回鳴ったアラーム音を消音ボタンで消し,次にアラームが鳴るまでの時間を数えて1分になる前に消音ボタンを押すことを繰り返した,3回目の消音ボタンを押したところ,Aが死んでいたとの趣旨の供述を維持していた(地乙11,13ないし15,17)。
 他方,消音状態維持機能をいつ,どのように知ったのかという点についての被告人の供述経過は,前記1(1)ウで述べたとおりであり,同月24日と25日を境に,消音状態維持機能の存在を予め知っていたという内容から,これを知らなかったとの内容に変遷している。
 (エ) なお,前記第1の3前提事実(2)のとおり,本件呼吸器は,①消音ボタンによるアラームの消音時間は1分間であり,②消音状態維持機能を搭載するものであったが,本件病院の看護師の中には,消音時間が1分間であることを正確に認識していた者は居なかった上,消音状態維持機能を利用していた者はおろかその存在を知っていた者も居なかった(再弁90ないし103,地甲20。なお,B看護師は,確定控訴審における証人尋問において,看護業務の際,消音状態維持機能を利用することがあるかのような供述をしているものの,公判供述全体を子細に検討すれば,消音状態維持機能を知っていたとの趣旨の供述であるとはいえない。)。そうすると,被告人が,上記①及び②の事実を看護師から教えてもらったり,その手技を見たりして知ったということは考えられない。そして,被告人は看護助手であって,人工呼吸器の操作は禁止されており,その使用方法の講義を受けることも当然ないのであるから,上記①及び②の事実は被告人において知り得ない内容であったといえる。
 ケ 利益供与等の不当・不適切な取調べ
 F警察官は,少なくとも任意捜査中の平成16年6月30日の取調べの際,長時間にわたる取調べの合間に,息抜きをさせるためとして被告人にジュースを提供した。
 また,F警察官は,被告人の取調べを行うに当たり,他の捜査員が居ると拒んで話をしないということがあったので,取調室のドアにごみ箱を挟んで開いたままにしつつ,ドアの外側に女性警察官を待機させ,室内では1対1の状態で取り調べることがあった(F証言)。
 コ 被告人のF警察官に対する身体的接触
 被告人は,本件起訴の二,三日前に行われたF警察官の取調べの際に,取調べが終わってF警察官が離れていくのが寂しいという旨を口にしながら,調書を作成しているF警察官の左手を撫でるように触ることがあった。
 また,被告人は,留置施設から滋賀刑務所への移監を控えた平成16年8月25日,F警察官の取調べを受けた際,寂しくなると言ってF警察官に抱きついた。F警察官は,これをあからさまに拒絶することはせず,頑張れよと言いながら被告人の肩を叩いた(F証言)。
 サ 起訴後の被告人の精神状態等
 被告人は,起訴後,接見等禁止が解けて連日のように両親と接見していたが,その中で,供述を覆して殺意はなかったと否認するようにと言われたことから,困惑し,精神的に動揺している状況にあった(地弁4,59)。そのような中で,平成16年8月18日弁護人と接見した際には,弁護人に対し,初めからAを殺すつもりはなかった旨伝えるなどしており(地弁67),同月24日の時点でも,弁護士や父母が否認を勧めるので戸惑っていると述べるなど,情緒不安定な状態であった(地弁4,25)。
 以上のような状態で迎えた同年9月24日の確定第1審の第1回公判期日において,被告人は,精神的に不安定であるとの理由で罪状認否を留保し,その後同第2回公判期日までの間には,針金を嚥下して自殺を図ったり,自分で壁に頭をぶつけたりといった行動に出ることもあった(地弁5)。そして,同年10月19日に行われた同第2回公判期日において,犯行を否認した。
 シ 起訴後の取調べ・検察官への手紙とその内容
 F警察官は,捜査本部の方針の下,検察官の許可も得て,起訴後も被告人の取調べを続けており,両親や弁護人が否認を勧めるので迷っているが,自分がAを殺したことに間違いないから公判では事実を認める,もし公判で否認したとしてもそれは自分の本当の気持ちではない,との趣旨の供述調書(地弁23,25)を作成したほか,同旨の供述書(検察官宛の手紙の体裁。地弁59,62,67,68,70)も作成させるなどした。また,F警察官は,被告人の前記第1回公判期日を傍聴した(F証言)。
 (3) 本件自白供述の動機,経緯に関する被告人供述等
 被告人は,当審公判廷において,前記(2)のとおり殺害を認め,その供述を維持した理由等について,以下のとおり供述する。
 ア まず,最初に殺害を認めるに至った経緯については,平成16年5月10日の取調べでF警察官から絶対にアラームが鳴っていたはずだと厳しく追及されていたところ,これから逃れるためにアラームが鳴っていたことを認める供述をすると,その態度が優しくなり,身の上話を聞いてくれたり,優しい言葉をかけてくれたりしたため,F警察官に好意を抱くようになった,その後,F警察官と話がしたくて自分から警察署に出向いたり,同情を誘うための嘘をつくなどしていたが,同年6月下旬にかけて段々とF警察官の自分への関心が薄れているように感じ,管を自分で外したなどと大それたことを言えば関心を持ってくれて,自分の話を聞いてくれると考え,同年7月2日,本件呼吸器の管を自分で外したと述べた,などと供述する。
 イ そして,その後もAを殺害した旨の供述(本件自白供述を含む)を維持していた経緯について,平成16年7月9日の弁護人との初回接見後,弁護人の助言を受けて本件呼吸器の管は抜いていないと否認したこともあったが,F警察官やその上司の警察官から,逃げるな,両親は警察を信用していて弁護士なんか信用していない,起訴前に来るような弁護士は聞いたことがない,そんな弁護士は信用するなと言われたため,弁護人ではなくF警察官を信用して否認を撤回した,その後も,F警察官は,弁護人との接見が終わる度にその様子を聞いてきて,前同様にそんな弁護士は信用できないと繰り返すので,そのとおりなのかと思った,同月14日頃には,母から,両親は弁護士を信用している旨の手紙を受け取ったが,F警察官がそれは弁護士が書かせたもので,両親の本当の気持ちではないと言うので,その手紙は信用しなかった,同月16日の検事の取調べで,この人なら本当のことを言っても分かってくれると思い,故意に本件呼吸器の管は外していないと否認したが,その後のF警察官の取調べで,そんなことを言ったら大変なことやと言われ,F警察官の指示で,検事宛に,否認は嘘である旨の供述書を作成した,F警察官から,殺人でも無罪から死刑まであり,執行猶予になる場合もあるし保釈になる場合もある,僕に任しておけば間違いはないと言われていたため,このまま自分が殺人犯になって大変なことになるとは思っていなかった,起訴の前後を問わず,F警察官が供述書の作成及びその記載内容を指示し,毎回これに従って作成していたなどと供述している。
 また,そのほかにも,F警察官による取調べに関し,F警察官が毎日のようにオレンジジュースを差し入れてくれていたことや,F警察官が右手で調書を作成している際に,その左手に触れたりしていたが,F警察官はこれを嫌がることはなかった旨も供述する。
 ウ 被告人が供述する内容は,警察官の関心を惹くためにやってもいない殺人を自白したというものであり,一見して不自然なものである感は否めないが,F警察官に対する恋愛感情の存在を前提に,軽度知的障害や発達障害,愛着障害等の被告人の前記特性を踏まえて検討すれば,必ずしもあり得ない内容ではなく,むしろ,前記(2)の認定事実に裏付けられ,あるいはこれに沿うものであるといえる。
 他方,被告人の当審公判供述の中には,F警察官が弁護人との信頼関係を損ねるような発言をしたとする点や,供述書はF警察官の指示に基づいて作成していたとする点など,一部F警察官の供述と整合しない部分もある。もっとも,F警察官は被告人の取調べに当たって誘導は一切行っていないと断言するものの,前記(2)クの事実を踏まえると,被告人が知っていたはずのない消音状態維持機能を利用してアラームを鳴らさずにAを殺害した旨の供述をした際にはF警察官からの誘導があったと考えるほかないのであって,誘導はしていない旨のF警察官の供述は信用することができない。また,F警察官の供述には,被告人が否認する内容の供述調書や供述書が存在するか否かの点で,確定審の公判供述中に特段の理由なく変遷している部分もあり,これらの点に鑑みると,本件再審公判においてF警察官の証人尋問が行われていないことを踏まえる必要性はあるものの,F警察官が捜査の適正さを強調するなどの目的で不当,不適切な手続を糊塗し,あるいは矮小化する供述をした具体的な可能性が認められる。
 そうすると,そのほかに被告人の当審公判供述に反する証拠がないことも併せ考慮すれば,被告人の当審公判供述を信用できないとして排斥することはできない。
 (4) 検討
 ア 前記(2)の認定事実に加え,前記(3)の被告人供述を併せ踏まえると,被告人が,平成16年7月2日,F警察官に,初めて本件呼吸器の管を外してAを殺害した旨の供述をしたのは,F警察官の関心を惹くためであったと認められ,その供述内容の真偽はともかく,上記供述が自発的になされたものであることは明らかである。
 イ 一方,逮捕後にもその供述を維持した理由,経緯,その際の捜査手続については下記の各事実が認められる。
 (ア) F警察官は,検察官による接見指定により弁護人の接見が1回につき約1時間程度とされる状況の下,自らは,連日にわたり,ときに深夜近くにまで及ぶ長時間の取調べをして,被告人から弁護人との接見内容を聞き出すとともに,そんな弁護士は信用できないなどと繰り返し述べて被告人と弁護人との信頼関係を損ねるような発言を繰り返した(前記(2)カ)。
 (イ) F警察官は,被告人から,弁護人との接見や検察官の取調べで殺害を否認した旨を聞いたり,その後,自身に対して否認供述を続けたりしても,逃げるななどと言ってこれを聞き入れようとせず,被告人が再び自白に転じるまで供述調書を作成することはなかった。その結果,F警察官は,多数の自白調書を作成するとともに,被告人に指示して,これとほぼ同内容の多数の供述書を作成させたほか,接見時等における否認供述について,弁護人や検察官に嘘をついた旨の供述調書等を作成するなどした一方で,被告人の否認供述を証拠化することはなく,否認調書は一通も作成されなかった(前記(2)キ(カ)))。
 (ウ) F警察官は,被告人に対する取調べにおいて,捜査の過程で判明した具体的事実等を被告人に伝えつつ,これと整合する捜査機関側のストーリーを示唆するなどした。被告人の自白供述は,捜査の進展に連動して,捜査機関側の見立てやストーリーに沿うように変遷している上,消音状態維持機能については,Aの死亡当時,被告人が知り得ず,およそ創作することもできない内容の供述を含んでいる。
 ウ そこで,以上の事実を踏まえ,さらに当時の捜査機関,特に,F警察官の意図について検討すると,上記イのような捜査手続の内容,経緯自体から,それら捜査が,被告人の自白の獲得・維持を目的として行われたことや,捜査状況に応じ,捜査機関の描くストーリーに沿う自白供述をするよう誘導する意図に基づいて行われたことが強く推認される。
 加えて,F警察官が,遅くとも平成16年6月下旬頃までには,被告人の迎合的な態度や自身に対する恋愛感情を認識していたこと(前記(2)ウ),接見等禁止中で弁護人としか接見できない被告人に対し,接見毎にその内容を聞き出した上,弁護人に対する不信感を煽るような言動を繰り返すなどしたこと(前記被告人供述),その一方で,事件に関する供述以外に,被告人の自身に対する恋愛感情を記載した供述調書を多数作成したり(前記(2)キ),取調べ中,毎日のように,被告人にジュースを差し入れて飲ませたり,取調べにおいて,本来,立ち会わせるべき女性警察官を取調べ室外に待機させて,被告人と2人きりの状態にし,被告人が自身の手を触ってくるのを黙認したりしたこと(同コ,前記被告人供述)等の事情を併せ考慮すれば,F警察官が,逮捕後の取調べを通じて,被告人の特性や恋愛感情に乗じて,被告人に対する強い影響力を独占し,その供述をコントロールして,自白供述を維持させようとする意図を有していたことが推認される。
 さらに,F警察官が,起訴後も,被告人に対して幾度も取調べを行ったこと,弁護人や両親との接見を重ね,公判期日において否認をしようと考えていることを知るや,被告人に指示して,公判でも事実を認める旨の検察官宛の手紙等を複数作成させた上,確定第1審の第1回公判期日を傍聴したこと(同シ)などの本件自白供述以降の事情は,F警察官の被告人に対する影響力を独占し,その供述をコントロールしようとする意図の存在を裏付け,かつ,それが強固なものであったことを示すものといえる。
 (5) 本件自白供述の任意性(あてはめ)について
 そこで,以上を踏まえ,前記(1)の規範に照らし,本件自白供述が,「任意にされたものでない疑」があるといえるか否かについて検討する。
 ア まず,本件捜査手続及び捜査官の意図について検討すると,F警察官は,被告人の迎合的な供述態度や自らに対する恋愛感情等を熟知しつつ,これを利用して,被告人の供述をコントロールしようとの意図の下,連日にわたり長時間の取調べを重ねるとともに,その過程で,弁護人との接見内容を把握し,かつ,弁護人との信頼関係を損なうような言動をすることにより,弁護人以外との接見等が禁止されていた被告人に対し,強い影響力を独占的に行使し得る立場を確立した上,捜査の過程で把握した具体的な情報を逐次提供するなどしつつ,これと整合的な自白供述を引き出そうと誘導し,あるいは,捜査機関の描くストーリーを暗に示唆するなどしたものと認められる。
 イ そこで,それら捜査の人権侵害性や違法・不当性についてみると,接見内容の把握や弁護人との信頼関係を損なうような言動は,それ自体,被告人の秘密接見交通権や弁護人による弁護を受ける権利を実質的に侵害するものといえる上,上記のような状況・意図の下,否認してもその調書は作成せず,長時間の取調べを経て,あくまでも自白調書や自白の供述書のみを積み重ねていくという姿勢を堅持する中で,知的障害や愛着障害等から迎合的な供述をする傾向が顕著である被告人に対し,上記のような誘導的な取調べを行うことは,虚偽供述を誘発するおそれの高い不当なものであったというべきである。
 ウ 次いで,それら捜査が本件自白供述に与えた影響の有無・程度(因果性)について検討すると,被告人が,現に,弁護人と接見する度に否認に転じ,検察官に対しても否認供述をしていることに照らしても,F警察官の言動により被告人と弁護人との信頼関係が揺らぐことがなければ,F警察官が,上記特性を有する被告人に対し,自身に対する恋愛感情等に乗じて強い影響力を独占的に行使し続けることは困難であったと考えられ,日々,弁護人との接見を重ねる中で,被告人が,自白供述を維持したかどうかは疑問である。F警察官が否認供述にも耳を傾け,否認供述を内容とする調書も作成する姿勢を示していたとすれば,なおのことである。しかも,被告人は,上記取調べの過程で,F警察官から提供された,自らの知り得ない情報に基づく具体的な内容をも含む詳細な自白供述をしているのであって,その供述は,まさにF警察官の上記のような取調べによって誘発されたものであると評価すべきである(なお,一般論としては,客観的な証拠や関係者の供述内容を教示しつつ,被疑者の言い分を聴取する捜査手法がおよそ許容されないものではなく,むしろ,そのような手法が必要かつ合理的な場合もあり得る。しかし,自発的な供述を引き出すためには,まずもって,被疑者に自らの記憶に基づく供述を自由にさせ,その上で,必要に応じ,上記のような手法を用いるのが相当である。特に,被暗示性や迎合的な供述傾向が強い供述者に対しては,自由に体験事実を供述させる前に,客観的な証拠の内容等を教示すれば,そのこと自体により証拠内容に沿う供述を誘発するおそれがあることに留意すべきである。)。
 以上によれば,本件自白供述のうちF警察官に対する供述調書(地乙3ないし16)は,上記のような防御権侵害や不当性を伴う捜査によって誘発されたものである疑いが強い。
 また,本件自白供述のうち供述書(地乙21ないし23)についても,外形的には,被告人自身が作成したものではあるものの,いずれもF警察官の指示により,その面前で,ほぼ同趣旨の自白調書が作成されるのと相前後して作成されたものであり,同様に上記捜査の影響によって誘発された疑いが強い。
 さらに,本件自白供述のうち,検察官に対する自白調書(地乙17ないし20)も,その中に「私のことを一生懸命考えてくれるF警察官の言葉を信用し,正直にありのままを話した。」という記載がある(地乙20)ことからも明らかなとおり,F警察官の取調べによる上記のような影響が排除されることはなく,むしろ,その影響が強く残存する中で作成されたものであると認められる。
 エ 以上に加え,F警察官は,消音状態維持機能の例を含め,Aの死亡当時,被告人が知り得なかった情報を教示するなどして供述を誘導したことにより,現に,虚偽供述を誘発したことも認められる。
 オ 総合評価
 そこで,以上の事情を総合して評価すると,本件における防御権侵害や捜査手続の不当・不適切性は,これらを主たる理由として任意性を否定されたこれまでの事案ほどに深刻なものとまではいえないとしても,被告人の特性・恋愛感情やこれに乗じて被告人に対する強い影響力を独占してその供述をコントロールしようとするF警察官の強固な意図と相まって,虚偽供述を誘発するおそれがあるものであったというべきであり,かつ,現に明白な虚偽供述を含む本件自白供述を誘発した疑いが強いというべきである。防御権侵害及び捜査手続の不当・不適切性の有無,程度等の捜査機関側の事情に加え,知的障害・愛着障害等の特性や恋愛感情等,供述者たる被告人側の事情をも含む,上記供述がなされた経緯,過程に関わる諸事情を総合すると,本件自白供述は,実質的にみて,自発的になされたものとはいえず,上記防御権侵害や捜査手続の不当・不適切性によって誘発された疑いが強いというべきであるから,「任意にされたものでない疑」があるというべきである。
 なお,F警察官に対する恋愛感情は,少なくとも初期の段階では被告人の自発的な感情であり,Aを殺した旨を初めて述べた時点では,その供述が外形的にも実質的にも自発的になされたものであることは前記のとおりであって,恋愛感情の存在は,それ自体が直ちに任意性を疑わせる事情になるものではない。しかし,F警察官は,被告人が,弁護人との接見後,否認に転じると,被告人の恋愛感情や迎合的な供述態度を熟知しつつ,これに乗じて被告人の供述をコントロールしようとの意図の下で,不当・不適切な手段を用いて,恋愛感情を増進させつつ,他方で弁護人への不信感を醸成させ,被告人に対する影響力を独占し,その供述を誘導,コントロールしようとしたものであって,そのような状況の下でなされた供述は,もはや実質的には,自発的に行われたものとはいえず,不当・不適切な捜査等によって誘発されたものと評価するのが相当であるから,前記認定を左右しない。
 (6) 証拠排除
 以上の次第であって,当審において取り調べた証拠を踏まえる限り,本件自白供述(乙3ないし23)については,いずれも「任意にされたものでない疑」があるというべきであるから,これらを証拠排除することとする。」

⑶解説(LIC提供)

 「1 本件は、いわゆる湖東記念病院事件の看護助手に対する再審無罪判決である。
 本件再審無罪判決に至る経過は、以下のとおりである。
 (1)本件は、滋賀県の病院に勤務していた看護助手が、自己の処遇等についてのうっ憤を晴らすため、平成15年5月22日午前4時ころ、慢性呼吸不全等の重篤な症状で入院加療中のA(当時72歳)に対し、殺意をもって、のど元に装着されていた人工呼吸器の呼吸回路中のL字管から接続するフレックスチューブ(管)を引き抜き、酸素供給を遮断し、呼吸停止の状態に陥らせ、そのころ急性低酸素状態により死亡させて殺害した、として、同16年7月6日逮捕、勾留され、同月27日に起訴されたものである。
 (2)確定審、本件再審を通じ、主要な争点は、①Aの死因、②被告人の自白の任意性及び信用性であったが、大津地裁は、同17年11月29日、被告人が上記犯行に及んだものと認め、懲役12年を言い渡し、大阪高裁同18年10月5日の控訴棄却判決、最高裁の同19年5月21日上告棄却決定、同年6月4日異議申立て棄却決定を経て確定した(以下、「確定判決」という。)。被告人は、同29年8月24日刑の執行を受け終わっている。
 (3)被告人は、平成22年9月21日、大津地裁に再審請求をしたが、棄却されため、同24年9月28日、刑訴法435条6号による第2次再審請求をし、同27年9月30日棄却された〔判例秘書L07050540〕。これに対する即時抗告審・大阪高裁は、同29年12月20日、弁護人提出の新証拠により、Aの死因が酸素供給の途絶にあるとする確定判決が依拠したC鑑定等の証明力は減殺され、Aが自然死した合理的な疑いが生じた、として、新証拠の刑訴法435条6号該当性を認め、原決定を取り消し、再審を開始する旨の決定をし〔判例秘書L07220576。この決定については、判例秘書掲載の解説がある。〕、この決定は、最高裁平成31年3月18日の特別抗告棄却決定により確定した。
 本件は、これを受けた再審事件である。
2 本件の争点と確定判決
 本件確定審、再審を通じての争点は、①Aの死因―事件性が認められるか、②被告人の捜査段階における自白供述の任意性及び信用性であった。
 確定判決は、①については、遺体を解剖したCの鑑定書及び証言の信用性を認め、Aの死因は急性の心停止であり、人工呼吸器からの酸素供給が途絶し、急性の低酸素状態に陥ったことによるとし、酸素供給途絶の原因としては、ア)機械の誤作動、イ)何者かの過失か、ウ)故意により殺害が考えられるが、ア)イ)は否定される、②については、被告人は、犯行の機会や人工呼吸器の知識から、犯行が可能な立場にあったとして、管を外した旨の被告人の捜査段階における自白の信用性、任意性を認めた。
3 本判決の判旨
 本判決は、Aの死因について、C鑑定等のうち、Aの死因が人工呼吸器の管の外れ等に基づく酸素供給欠乏であるとする判断部分については、信用性に疑問があり、Aは機能性の致死性不整脈を含む、酸素欠乏以外の原因で死亡した可能性があるとし、被告人の捜査段階における自白供述も任意性に疑いがあり、信用性がなく、他に検察官の主張に沿う事実を認めるに足りる証拠はないとして、被告人に対し、無罪を言い渡した(この無罪判決は、検察官が上訴権を放棄し、令和2年4月2日確定している。)。
 その判断の理由の詳細については、判文(判示第3、第4)を参照されたいが、要旨は、以下のとおりである。
 (1)Aの死因(争点①)について
  確定判決が依拠したC鑑定等は、解剖所見に「本件事歴」を参考にして、「急性の心停止状態が発生し、死亡した所見は残されているが、疾病が心停止を生じたことを示す検査結果が得られていない。人工呼吸器停止、管の外れ等に基づく、酸素欠乏が一義的原因と判断される」とするが、ア)「Aの血中カリウムイオン濃度が不整脈を生じ得るほどの異常低値であり、気管に痰が多量にあった所見から人工呼吸器の管の外れ等に基づく酸素供給欠乏以外の死因として、低カリウム血症に起因する致死性不整脈や痰詰まりによる酸素供給低下が想定される」ところ、これら他の原因で死亡した可能性を排斥する合理的説明が欠如している、イ)C医師は、C鑑定の結論部分の記載のほか確定第一審で人工呼吸器の管が外れていたという事情を加えて死因を判断した旨供述もしていることから、解剖結果のみでなく、Aの死亡前に人工呼吸器の管が外れた状態が生じていたと看護師が述べた旨の「本件事歴」に記載の事情を併せて死因を判断したと理解され、Aの異常発見後、医師らに急報するとともに救命活動に従事した看護師は、当初本件呼吸器の管が外れていたと述べ、後に異常発見直後に管に触れたのは覚えているが、外れていたかどうかはっきりしないと供述を変遷させており、管が外れていたかどうか疑わしい事実を前提条件としている、ウ)C医師は、確定第一審で、酸素供給が遮断されて低酸素状態となった時の顔色はチアノーゼとなり、黒ないし赤黒い色になると供述していたが、異常を発見された当時のAの顔色は蒼白であったとあったと認められ、結論との整合性に疑問のある事実が存在する、これらの点から、Aの死因に関する判断部分は、信用できない。
  他方、再審公判で取り調べたG、H、I、J、K等の医師らの意見書等を含む関係証拠によれば、解剖所見や診療経過等から、「Aが、低カリウム血症に起因する致死性不整脈により死亡した具体的可能性のほか、慢性閉塞性肺疾患(COPD)、冠動脈狭窄、肺水腫等を要因とする致死性不整脈を生じたことにより死亡した具体的可能性もあることが認められる上、管への痰の詰まりや人工呼吸器のウォータートラップの不完全な接続等を原因として遷延性低酸素状態に陥ったことがAの死因である可能性も肯定できる」。
  「被告人の自白供述以外の証拠に基づき検討した場合、Aの死因について、人工呼吸器の管の意図的な抜去による酸素供給遮断であると認めるに足りる証拠はな〔く、〕……本件事件性を認めるに足りない。」
 (2)被告人の捜査段階における自白供述の任意性及び信用性(争点②)について
  1)被告人は、捜査段階において、人工呼吸器の管を意図的に抜去した旨の自白供述をしているが、「被告人の供述内容は、任意捜査の間を通じ、アラームの吹鳴の有無、本件呼吸器の管を外したのか外れたのか、アラームが吹鳴した後の行動など、複数の重要な点で目まぐるしく変遷を重ね」ており、「合理的理由がなく大幅に変遷している上、このうち自白供述については死亡に至る際のAの表情変化等の点で医学的知見と矛盾する不合理な内容でもある」など、信用性には重大な疑問がある。
  2)被告人の捜査段階における自白供述は、「被告人の特性・恋愛感情やこれに乗じて被告人に対する強い影響力を独占してその供述をコントロールしようとするF警察官の強固な意図と相まって、虚偽供述を誘発するおそれがあるものであったというべきであり、かつ、現に明白な虚偽供述を含む本件自白を誘発した疑いが強」く、こうした捜査機関側の事情に加え、「軽度知的障害、発達障害(注意欠如多動症)及び気分循環性障害が併存」し、「愛着障害に基づく強い承認欲求と相まって、迎合的な供述をする傾向がある」などの被告人の特性やF警察官に対する恋愛感情等、供述者たる被告人側の事情を含む、上記供述がなされた経緯、過程に関わる諸事情を総合すると、実質的にみて、自発的にされたものとはいえず、連日、時に深夜近くまで長時間の取調べをし、弁護人との接見内容を聞き出し、被告人と弁護人との信頼関係を損なうような発言を繰り返し、接見時等における否認供述について、弁護人や検察官に嘘をついた旨の供述調書等を作成する一方、否認調書は作成しないなど、防御権侵害や捜査手続の不当・不適切によって誘発された疑いが強いというべきであるから、「任意にされたものでない疑」があるというべきである。
4 本判決の判断について
 (1)本判決は、第2次再審請求の即時抗告審決定の判断内容に沿うものであるが、同決定で刑訴法435条6号に該当し新規性が認められ、再審公判で新たに取り調べられた証拠等を総合して、被告人が故意に人工呼吸器を抜去したものと認めるには合理的疑いがあるとしたものである。
 (2)本件の主要な争点であるAの死因について、確定判決が依拠したC鑑定等について、上記即時抗告審決定及び本判決が説示するところは、鑑定結果の評価に当たって一般的にも留意すべき点を示している。
  本件において重要と考えられるのは、Ⅰ)Aの異常が発見されたとき、人工呼吸器の管が外れていたかどうか、Ⅱ)Aの死因が人工呼吸器の管の抜去による酸素供給遮断によるものか、他の原因による可能性があるのかであろう。
  C鑑定は、必ずしも明確でない看護師の供述から得た、捜査官からの情報を加えて結論を出している。鑑定人が解剖所見のみならず、捜査機関から知り得た事情を参考とすることが全て否定されるわけではなく、鑑定依頼の趣旨にもより、一概に不当とはいえないであろうが、少なくとも参考とした事実関係を明示し、裁判所による鑑定結果の評価、判断が的確に行われるようにすべきであるし、裁判所においては、鑑定の前提とされた事実が証拠によって確認できるか十分検討する必要がある。本件確定判決については、限られた証拠の中での判断とはいえ、この点の検討が不十分であったといわざるを得ないであろう。
 (3)被告人の捜査段階における自白を含む供述については、自白、否認が繰り返されるなど著しく変遷していたにもかかわらず、否認の理由を述べるものだけでなく否認調書自体が作成されていないというのであり、人工呼吸器の管が外れていたかどうかはっきりせず、被告人はアラームの停止方法も知らなかったとみられることや、本判決が指摘している、取調べに当たった警察官側の事情のほか、被告人側の事情を考慮すると、信用性のみならず、任意性に疑いを抱くべき状況があったといわざるを得ないであろう(ちなみに、自白の信用性の判断における注意則についての研究として、司法研修所編「自白の信用性」がある。)。
 (4)本件の再審公判及び無罪判決を経て、改めて指摘されるのは、証拠開示の在り方であろう。再審公判では、再審請求の根拠となった新証拠等関連する証拠が広く取り調べられている。本判決に別紙として添付されている「被告人の供述経過一覧表」には、再審公判で初めて取り調べられた証拠を含め、被告人の任意捜査段階から確定審第1審第2回公判期日に至る供述状況及び内容の骨子が掲記されているが、本判決の判断には、再審公判で取り調べられた証拠が重要な役割を果たしていることがうかがえる。確定審の段階で、これらの証拠が適宜、適切に開示されていたならば、異なる判断結果となっていた可能性が高いと思われる。
  本件のような経過をたどった事例を見ると、確定審の段階から、証拠開示が必要に応じ適宜に行われることの重要性が指摘されるとともに、再審事件における証拠開示の在り方・ルールについて、法制化をも視野においた検討がされることが望まれるものといえよう。
 (5)なお、再審で無罪となった比較的最近の事例として、大阪地判平28.8.10判例秘書L07150781(現住建造物等放火、殺人等。被告人及び共犯者の自白に任意性がなく、自然発火の可能性の合理的疑いがあるとしたもの。いわゆる東住吉事件)、東京高判平24.11.7判例秘書L06720566(いわゆる東電女子社員殺害事件)などがある。 (LIC提供)」