最高裁平成22年4月27日刑集64巻3号233頁・刑訴百選【11】59事件(情況事実による事実認定)
1 はじめに
本判例は、当時44歳の被告人が,息子(養子)の妻(当時28歳)及びその夫婦の長男(当時1歳10か月)を,息子宅であるマンションの室内で殺害し,その後,同室内で放火したという殺人,現住建造物等放火の事実で起訴され,第1審で無期懲役,第2審で死刑といずれも有罪の認定がなされたにもかかわらず,最高裁において,審理不尽,事実誤認の疑いを理由に,第1,2審判決がいずれも破棄されて事件が第1審に差し戻された事件です。本判例は、先例として最高裁平成19年10月16日刑集61巻7号677頁・刑訴百選【11版】58事件(証明の程度)の判例を参照し、「殺人,現住建造物等放火の公訴事実について,間接事実を総合して被告人が犯人であるとした第1審判決及びその事実認定を是認した原判決は,認定された間接事実中に被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が含まれているとは認められないなど,間接事実に関する審理不尽の違法,事実誤認の疑いがあり,刑訴法411条1号,3号により破棄を免れない。」としたものです。
2 前提となる知識
⑴条文
刑訴法317条
事実の認定は、証拠による。
刑訴法318条
証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる。
刑訴法333条1項
被告事件について犯罪の証明があつたときは、第334条の場合を除いては、判決で刑の言渡をしなければならない。
⑵判例
最高裁平成19年10月16日刑集61巻7号677頁・刑訴百選【11版】58事件
①有罪認定に必要とされる立証の程度としての「合理的な疑いを差し挟む余地がない」の意義について、「有罪認定に必要とされる立証の程度としての「合理的な疑いを差し挟む余地がない」というのは,反対事実が存在する疑いを全く残さない場合をいうものではなく,抽象的な可能性としては反対事実が存在するとの疑いをいれる余地があっても,健全な社会常識に照らしてその疑いに合理性がないと一般的に判断される場合には有罪認定を可能とする趣旨であるとしたこと。
②有罪認定に必要とされる立証の程度としての「合理的な疑いを差し挟む余地がない」の意義は,直接証拠によって事実認定をすべき場合と情況証拠によって事実認定をすべき場合とで異なるかについて、「有罪認定に必要とされる立証の程度としての「合理的な疑いを差し挟む余地がない」の意義は,直接証拠によって事実認定をすべき場合と情況証拠によって事実認定をすべき場合とで異ならない」としたこと。
3 問題の所在(刑訴百選【11版】59事件解説及び判例タイムズ1326号137頁)
「「情況証拠による事実認定」とは,おおまかにいうと,認定対象の事実を,証拠から認められる別の事実によって推認するということである。たとえば「雨が降った」という事実を「地面が濡れている」という事実から推認するといった具合である。
事実認定論においては,一般に,認定されるべき事実が「要証事実」「主要事実」,それを推認しようとする根拠となる事実が「間接事実」などと呼ばれる。その間接事実を認定する基となる証拠が「情況証拠」「間接証拠」などといわれるものである。情況証拠は,間接事実と間接証拠を合わせた意味で使われる例もある。
外の様子を見て(検証の結果),「地面が濡れている」という事実を認めれば,そこから「雨が降った」のだと思いつくであろう。ここでは「雨が降れば地面が濡れる」といった経験則が想起されていると思われる。しかし,地面が濡れる原因には,「雨が降った」以外の事態,たとえば,人が水をまいたとか,川の氾濫や水道管の破裂等の災害・事故など,いろいろ考えられる。しかし,あたり一面が濡れていて人工的な散水等の可能性が考えられないとか,災害・事故等の形跡はおよそうかがわれないなど,雨以外の事態から「地面が濡れている」結果が
もたらされたという可能性がないとすれば,「雨が降った」という事実があったと断定することになろう。」(百選解説1)
「本判決は,情況証拠から被告人を有罪とした1,2審の判断を維持した上記最一小決平19.10.16(※刑訴百選【11版】58事件)を引用しつつ,「情況証拠によって事実認定をすべき場合であっても,直接証拠によって事実認定をする場合と比べて立証の程度に差があるわけではない」と判示しており(藤田裁判官の補足意見においても,前記のような考え方は上記最一小決と矛盾しないと述べられている。),このことからしても,上記説示は,有罪認定のための新たな基準を定立したものではなく,事実認定判断の際の視点の置き方について注意を喚起しようとしたものではないかと考えられる。この説示と同趣旨の見解は,これまでにもみられたところであり,例えば,斎藤朔郎『刑事訴訟論集』239頁(中川武隆ほか『情況証拠の観点から見た事実認定』29頁でも引用)においては,「綜合の結果としての結論は,合理的な判断によると,唯一の結論でなければならない。合理的な判断によって,その結論と矛盾する他の仮定を許すようなものであってはならないのである。従って,その認定せられた要証事実を真実なりとして始めて,一切の間接事実は相互に関連して共存する関係が,矛盾なく説明できると共に,他の如何なる別の事実を仮定しても,かかる矛盾のない関連関係が,到底説明できないというテストに,堪えるものでなければならない。」と説かれていた。」(判例タイムズ1326号137頁)
4 判旨
https://www.courts.go.jp/hanrei/80149/detail2/index.html
「弁護人中道武美の上告趣意のうち,第1点ないし第3点は,憲法37条違反,判例違反をいう点を含め,実質は単なる法令違反,事実誤認の主張であり,被告人本人の上告趣意は,事実誤認の主張であって,いずれも刑訴法405条の上告理由に当たらない。
しかしながら,所論にかんがみ,職権をもって調査すると,原判決及び第1審判決は,刑訴法411条1号,3号により破棄を免れない。その理由は,以下のとおりである。
1 本件公訴事実及び争点
本件公訴事実の要旨は,被告人は,(1) 平成14年4月14日午後3時30分ころから同日午後9時40分ころまでの間に,大阪市平野区所在のマンション(以下「本件マンション」という。)の306号室のB(以下「B」という。)方において,その妻C(当時28歳。以下「C」という。)に対し,殺意をもって,同所にあったナイロン製ひもでその頸部を絞め付けるなどし,よって,そのころ,同所において,同女を頸部圧迫により窒息死させて殺害し,(2) (1)記載の日時場所において,B及びC夫婦の長男であるD(当時1歳。以下「D」という。)に対し,殺意をもって,同所浴室の浴槽内の水中にその身体を溺没させるなどし,よって,そのころ,同所において,同児を溺死させて殺害し,(3) 本件マンションに放火しようと考え,同日午後9時40分ころ,本件マンション306号室のB方6畳間において,同所にあった新聞紙,衣類等にライターで火をつけ,その火を同室の壁面,天井等に燃え移らせ,よって,Bらが現に住居として使用する本件マンションのうち上記306号室B方の壁面,天井等を焼損し,もって,同マンションを焼損した,というものである。
被告人は,Bが子供のころにその実母E(以下「E」という。)と婚姻し,養父としてBを育て,かつては,同居するEと共に,B家族との交流があったが,Bの借金問題,女性問題等をきっかけに,本件事件当時はB家族と必ずしも良好な関係にあったとはいえず,B家族が平成14年2月末に本件マンションに転居した際には,その住所を知らされなかったものである。上記(1)ないし(3)の公訴事実となっている事件は,Bの留守中に発生したもので,火災の消火活動に際してCとDの遺体が発見されたことから発覚し,捜査が進められた結果,同年11月16日に被告人が逮捕され,同年12月7日に上記(1),(2)の各事実が,同月29日に上記(3)の事実が起訴された。
上記公訴事実につき,検察官は,その指摘する多くの間接事実を総合すれば被告人の犯人性は優に認定できる旨主張し,被告人は,本件事件当日まで,事件現場である本件マンションの場所を知らず,事件当日及びそれ以前を含めて,その敷地内にも立ち入ったことはない,被告人は犯人ではなく無罪である旨主張した。争点は,被告人の犯人性である。
2 第1審判決
第1審判決は,被告人の犯人性を推認させる幾つかの間接事実が証拠上認定できるとした上,これらの各事実が,相互に関連し合ってその信用性を補強し合い,推認力を高めているとして,結局,被告人が本件犯行を犯したことについて合理的な疑いをいれない程度に証明がなされているとし,ほぼ上記公訴事実と同じ事実を認定し,被告人を無期懲役に処した(検察官の求刑は死刑)。この間接事実からの推認の過程は,以下のようなものである。
(1) 被告人は,本件事件当日である平成14年4月14日,仕事が休みであり,午後2時過ぎころに自宅を出て,自動車に乗って大阪市平野区方面へ向かい,同日午後10時ころまで同区内ないしその周辺で行動していたことが認められるが,さらに,以下のアないしオを併せ考えると,被告人が,同日に現場である本件マンションに赴いたことを認定することができる。
ア 本件マンションの道路側にある西側階段の1階から2階に至る踊り場の灰皿(以下「本件灰皿」という。)内から,本件事件の翌日にたばこの吸い殻72本が採取されたが,その中に被告人が好んで吸っていた銘柄(ラークスーパーライト)の吸い殻が1本(以下「本件吸い殻」という。)あり,これに付着していた唾液中の細胞のDNA型が,被告人の血液のDNA型と一致していること,このDNA型一致の出現頻度は1000万人に2人という極めて低いものであること,本件事件の火災発生後,程なく警察官による現場保存が行われたことなどから,被告人が,本件事件当日あるいはそれまでの間に事件現場である本件マンションに立ち入り,本件灰皿に本件吸い殻を投棄したことが動かし難い事実として認められる。
イ 本件事件当日午後3時40分ころから午後8時ころまでの間,被告人が当時使用していた自動車と同種・同色の自動車が,本件マンションから北方約100mの地点に駐車されていたと認められる。
ウ 被告人自身が,捜査段階において,本件事件当日に自己の運転する自動車を同地点に駐車したことを認めていた。
エ 本件事件当日午後3時過ぎないし午後3時半ころまでの間に,本件マンションから北北東約80mに位置するバッティングセンターにおいて,被告人によく似た人物が目撃されたと認められる。
オ 被告人自身,本件事件当日はBないしB宅を探して平野区内ないしその周辺に自動車で赴いたことを自認しており,これは信用できる。
(2) 他方,動機面についても,以下のアないしウの点などから,被告人は,本件事件当時,背信的な行為をとり続けるBに対して,怒りを募らせる一方,後記のような自分からの誘いを拒絶した上で,Bと行動を共にし,被告人の立場から見ればBに追随するかのような態度を見せていたCに対しても,同様に憤りの気持ちを抱くようになったことが推認できる。そうすると,Cとの間のやり取りや同女のささいな言動など,何らかの事情をきっかけとして,Cに対して怒りを爆発させてもおかしくない状況があったということができる。そのような事情を有していた被告人が,本件事件当日,犯行現場に赴いたことは,被告人の犯人性を強く推認させるものである。
ア 平成13年10月1日から同月24日まで,C及びDは,被告人宅で同居生活を送ったが,そのころ,被告人は,Cに対し,恋慕の情を抱いており,性交渉を迫る,抱き付く,キスをするなどの行為に及んだことがあった。
イ しかし,Cは,被告人からの誘いを拒絶し,被告人宅から被告人に告げることなくBの下へ戻った上,Bと行動を共にするようになり,被告人との接触を避けてきた。
ウ 被告人は,Bの養父ないし保証人として,Bの借金への対応に追われていたが,Bは,被告人に協力したり,感謝したりすることをせず,無責任かつ不誠実な態度をとり続けていた。
(3) 被告人は,本件事件当日の夕方,朝から仕事に出ていたEを迎えに行く約束をしていたにもかかわらず,特段の事情がないのにその約束をたがえ,C及びDが死亡した可能性が高い時刻ころに自らの携帯電話の電源を切っており,Eに迎えに行けないことをメールで伝えた後,出火時刻の約20分後に至るまでの間同女に連絡をとっていないなど,著しく不自然な点があるが,これらについては,被告人が犯人であると考えれば,合理的な説明が可能であり,得心し得るものである。
(4) このほか,被告人の本件事件当日の自身の行動に関する供述は,あいまいで漠然としたものであり,不自然な点が散見される上,不合理な変遷もみられ,全体として信用性が乏しいものであって,被告人は,特段の事情がないのに,同日の行動について合理的説明ができていない点がある。また,Cは,生前,在宅時も施錠し,限られた人間が訪れた際にしかドアを開けようとしなかったこと,本件の犯人が2歳にもならないDを殺害しているのは口封じの可能性が高いこと,犯人が現場に放火して徹底的な罪証隠滅工作をしていることなどから,本件犯行は被害者と近しい関係にある者が敢行した可能性が認められる。これらの各事実も,被告人の犯人性を推認させるものである。
(5) 以上の事実を全体として考察すれば,被告人が本件犯行を犯したことについて合理的な疑いをいれない程度に証明がなされているというべきである。
(6) なお,被告人は,本件事件当日に本件マンション敷地内に入って階段を上ったことがある旨認める供述をした被告人の平成14年8月17日付け司法警察員に対する供述調書(乙14)について,警察官から激しい暴行を受けたために内容もよく分からないまま署名したと主張するが,同供述調書の供述内容には任意性及び信用性が認められ,これによっても,被告人の犯人性が肯定されるという上記判断が更に補強されることになる。
3 原判決
この第1審判決に対し,被告人は,訴訟手続の法令違反,事実誤認を理由に控訴し,検察官は,量刑不当を理由に控訴した。
原判決は,被告人の控訴趣意のうち,前記司法警察員に対する供述調書(乙14)には任意性がなく,これを採用した第1審の措置が刑訴法322条1項に反しているという訴訟手続の法令違反の主張について,そのような訴訟手続の法令違反があることは認めつつ,事実誤認の主張については,第1審判決の判断がおおむね正当であり,同供述調書を排除しても,被告人が各犯行の犯人であると認めた第1審判決が異なったものになった蓋然性はないのであるから,この訴訟手続の法令違反が判決に影響を及ぼすことの明らかなものとはいえないとした。その上で,検察官の主張する量刑不当の控訴趣意に理由があるとして,第1審判決を破棄し,第1審判決が認定した罪となるべき事実を前提に,被告人を死刑に処した。
4 当裁判所の判断
しかしながら,第1審の事実認定に関する判断及びその事実認定を維持した原審の判断は,いずれも是認することができない。すなわち,刑事裁判における有罪の認定に当たっては,合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証が必要であるところ,情況証拠によって事実認定をすべき場合であっても,直接証拠によって事実認定をする場合と比べて立証の程度に差があるわけではないが(最高裁平成19年……10月16日第一小法廷決定・刑集61巻7号677頁参照),直接証拠がないのであるから,情況証拠によって認められる間接事実中に,被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が含まれていることを要するものというべきである。ところが,本件において認定された間接事実は,以下のとおり,この点を満たすものとは認められず,第1審及び原審において十分な審理が尽くされたとはいい難い。
(1) 第1審判決による間接事実からの推認は,被告人が,本件事件当日に本件マンションに赴いたという事実を最も大きな根拠とするものである。そして,その事実が認定できるとする理由の中心は,本件灰皿内に遺留されていたたばこの吸い殻に付着した唾液中の細胞のDNA型が被告人の血液のそれと一致したという証拠上も是認できる事実からの推認である。
このDNA型の一致から,被告人が本件事件当日に本件マンションを訪れたと推認する点について,被告人は,第1審から,自分がC夫婦に対し,自らが使用していた携帯灰皿を渡したことがあり,Cがその携帯灰皿の中に入っていた本件吸い殻を本件灰皿内に捨てた可能性がある旨の反論をしており,控訴趣意においても同様の主張がされていた。
原判決は,B方から発見された黒色の金属製の携帯灰皿の中からEが吸ったとみられるショートホープライトの吸い殻が発見されていること,それはCなどが被告人方からその携帯灰皿を持ち出したためと認められること,上記金属製の携帯灰皿のほかにもビニール製の携帯灰皿をCなどが同様に持ち出すなどした可能性があること,本件吸い殻は茶色く変色して汚れていることなどといった,上記被告人の主張を裏付けるような事実関係も認められるとしながら,上記金属製携帯灰皿を経由して捨てられた可能性については,Eの吸い殻を残して被告人の吸い殻だけが捨てられることは考えられないからその可能性はないとした。また,ビニール製携帯灰皿を経由して捨てられた可能性については,ビニール製携帯灰皿に入れられた吸い殻は通常押しつぶされた上で灰がまんべんなく付着して汚れるのであるが,本件吸い殻は押しつぶされた形跡もなければ灰がまんべんなく付着しているわけでもないのであり,むしろ,その形状に照らせば,もみ消さないで火のついたまま灰皿などに捨てられてフィルターの部分で自然に消火したものと認められること,茶色く変色している点は,フィルターに唾液が付着して濡れた状態で灰皿の中に落ち込んだ吸い殻であれば,翌日採取されてもこのような状態となるのは自然というべきであることから,その可能性もないとした。
しかし,ビニール製携帯灰皿に入れられた吸い殻が,常に原判決の説示するような形状になるといえるのか疑問がある上,そもそも本件吸い殻が経由する可能性があった携帯灰皿がビニール製のものであったと限定できる証拠状況でもない(関係証拠によれば,B方からは,箱形で白と青のツートーンの携帯灰皿も発見されており,これはE又は被告人のものであって,Cが持ち帰ったものと認められるところ,所論は,この携帯灰皿から本件吸い殻が捨てられた可能性があると主張している。)。また,変色の点は,本件事件から1か月半余が経過してなされた唾液鑑定の際の写真によれば,本件吸い殻のフィルター部全体が変色しているのであり,これが唾液によるものと考えるのは極めて不自然といわざるを得ない。本件吸い殻は,前記のとおり本件事件の翌日に採取されたものであり,当時撮影された写真において既に茶色っぽく変色していることがうかがわれ,水に濡れるなどの状況がなければ短期間でこのような変色は生じないと考えられるところ,本件灰皿内から本件吸い殻を採取した警察官Fは,本件灰皿内が濡れていたかどうかについて記憶はないが,写真を見る限り湿っているようには見えない旨証言しているから,この変色は,本件吸い殻が捨てられた時期が本件事件当日よりもかなり以前のことであった可能性を示すものとさえいえるところである。この問題点について,原判決の上記説明は採用できず,その他,本件吸い殻の変色を合理的に説明できる根拠は,記録上見当たらない。したがって,上記のような理由で本件吸い殻が携帯灰皿を経由して捨てられたものであるとの可能性を否定した原審の判断は,不合理であるといわざるを得ない(なお,第1審判決が上記可能性を排斥する理由は,原判決も説示するように,やはり採用できないものである。)。
そうすると,前記2(1)イ以下の事実の評価いかんにかかわらず,被告人が本件事件当日に本件マンションに赴いたという事実は,これを認定することができない。
(2) ところで,本件吸い殻が捨てられていた本件灰皿には前記のとおり多数の吸い殻が存在し,その中にはCが吸っていたたばこと同一の銘柄(マルボロライト〔金色文字〕)のもの4個も存在した。これらの吸い殻に付着する唾液等からCのDNA型に一致するものが検出されれば,Cが携帯灰皿の中身を本件灰皿内に捨てたことがあった可能性が極めて高くなる。しかし,この点について鑑定等を行ったような証拠は存在しない。また,本件灰皿内での本件吸い殻の位置等の状況も重要であるところ,吸い殻を採取した前記の警察官にもその記憶はないなど,その証拠は十分ではない。検証の際に本件灰皿を撮影した数枚の写真のうち,内容が見えるのは,上ぶたを取り外したところを上から撮った写真1枚のみであるが,これによって本件吸い殻は確認できないし,内容物をすべて取り出して並べた写真も,本件吸い殻であることの確認ができるかどうかという程度の小さなものである。さらに,本件吸い殻の変色は上記のとおり大きな問題であり,これに関しては,被告人が本件事件当日に本件吸い殻を捨てたとすれば,そのときから採取までの間に水に濡れる可能性があったかどうかの検討が必要であるところ,これに関してはそもそも捜査自体が十分になされていないことがうかがわれる。前記のとおり,本件吸い殻が被告人によって本件事件当日に捨てられたものであるかどうかは,被告人の犯人性が推認できるかどうかについての最も重要な事実であり,DNA型の一致からの推認について,前記被告人の主張のように具体的に疑問が提起されているのに,第1審及び原審において,審理が尽くされているとはいい難いところである。
(3) その上,仮に,被告人が本件事件当日に本件マンションに赴いた事実が認められたとしても,認定されている他の間接事実を加えることによって,被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明できない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が存在するとまでいえるかどうかにも疑問がある。すなわち,第1審判決は,被告人が犯人であることを推認させる間接事実として,上記の吸い殻に関する事実のほか,前記2(2)ないし(4)の事実を掲げているが,例えば,Cを殺害する動機については,Cに対して怒りを爆発させてもおかしくない状況があったというにすぎないものであり,これは殺人の犯行動機として積極的に用いることのできるようなものではない。また,被告人が本件事件当日に携帯電話の電源を切っていたことも,他方で本件殺害行為が突発的な犯行であるとされていることに照らせば,それがなぜ被告人の犯行を推認することのできる事情となるのか十分納得できる説明がされているとはいい難い。その他の点を含め,第1審判決が掲げる間接事実のみで被告人を有罪と認定することは,著しく困難であるといわざるを得ない。
そもそも,このような第1審判決及び原判決がなされたのは,第1審が限られた間接事実のみによって被告人の有罪を認定することが可能と判断し,原審もこれを是認したことによると考えられるのであり,前記の「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係」が存在するか否かという観点からの審理が尽くされたとはいい難い。本件事案の重大性からすれば,そのような観点に立った上で,第1審が有罪認定に用いなかったものを含め,他の間接事実についても更に検察官の立証を許し,これらを総合的に検討することが必要である。
5 結論
以上のとおり,本件灰皿内に存在した本件吸い殻が携帯灰皿を経由してCによって捨てられたものであるとの可能性を否定して,被告人が本件事件当日に本件吸い殻を本件灰皿に捨てたとの事実を認定した上で,これを被告人の犯人性推認の中心的事実とし,他の間接事実も加えれば被告人が本件犯行の犯人であることが認定できるとした第1審判決及び同判決に審理不尽も事実誤認もないとしてこれを是認した原判決は,本件吸い殻に関して存在する疑問点を解明せず,かつ,間接事実に関して十分な審理を尽くさずに判断したものといわざるを得ず,その結果事実を誤認した疑いがあり,これが判決に影響を及ぼすことは明らかであって,第1審判決及び原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。
よって,弁護人中道武美の上告趣意第4点について判断するまでもなく,刑訴法411条1号,3号により原判決及び第1審判決を破棄し,同法413条本文に従い,更に審理を尽くさせるため,本件を第1審である大阪地方裁判所に差し戻すこととし,裁判官堀籠幸男の反対意見があるほか,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。なお,裁判官藤田宙靖,同田原睦夫,同近藤崇晴の各補足意見,裁判官那須弘平の意見がある。」
5 解説(判例タイムズ1326号137頁)
「1 本件は,当時44歳の被告人が,息子(養子)の妻(当時28歳)及びその夫婦の長男(当時1歳10か月)を,息子宅であるマンションの室内で殺害し,その後,同室内で放火したという殺人,現住建造物等放火の事実で起訴され,第1審で無期懲役,第2審で死刑といずれも有罪の認定がなされたにもかかわらず,最高裁において,審理不尽,事実誤認の疑いを理由に,第1,2審判決がいずれも破棄されて事件が第1審に差し戻された事件である。
本件においては,犯行目撃証言を含め,被告人と犯行を結び付ける直接的な証拠が存在しなかった上,被告人は,捜査段階から一貫して,そもそも当時は息子宅の所在を知らず現場に行ったこともないと否認していたため,情況証拠から被告人が犯人と認定できるかどうかが最大の争点となっていた。第1審裁判所は,被告人の犯人性を推認させる幾つかの間接事実が証拠上認定できるとした上,これらの各事実が,相互に関連し合ってその信用性を補強し合い,推認力を高めていることを理由に,被告人が本件犯行を犯したことについて合理的な疑いをいれない程度に証明がなされているとし,被告人を両罪について有罪と認め,被告人を無期懲役に処した(検察官は死刑を求刑していた。)。これに対し,被告人が事実誤認等を理由に,検察官が量刑不当を理由にそれぞれ控訴したところ,原審裁判所は,第1審判決に事実誤認はなく被告人が有罪と認められるとした上,検察官の控訴に理由があるとし,第1審判決を破棄して被告人を死刑に処した。そこで,被告人が,さらに上告していたものである。
2 第1審判決及び原判決が被告人を有罪と判断した理由については,本判決がその要旨をまとめているが,上記のように,多くの間接事実からの総合判断が問題となっているため,正確に理解するためには,第1,2審判決を直接参照していただきたい。
また,本判決が,被告人を有罪とした第1審及び原審の判断を是認できないとした理由も,これらの種々の間接事実の認定にかかわる総合判断であって,本判決の多数意見を丁寧に解読する必要があるが,その要点のみをまとめれば,以下の2つと理解できる。すなわち,1つ目は,第1審判決及び原判決においては,幾つかの間接事実のうち,被告人のDNA型と一致する型を持つ細胞が付着したたばこの吸い殻が現場マンションの階段にある灰皿内から発見されたという事実が,本件事件当日に被告人が同マンションに赴いた事実を推認させる中心的な根拠とされていたところ,この吸い殻について,被告人が事件当日に捨てたものではない具体的な可能性があるとして疑問が提起されているのに,この点について審理が尽くされていないという点である。2つ目は,仮に,被告人が本件事件当日に本件マンションに赴いた事実が認められたとしても,他の間接事実を加えることによって,室内において被告人が本件各犯行に及んだというところまで推認できるかどうかにも疑問があるという点である。本判決の多数意見は,これらの点についての第1審及び原審の審理,判断が是認できないとして,間接事実に関する審理不尽の違法,事実誤認の疑いがあると判断した。
3 本判決の重要性は,何といっても事実認定について詳細な判断が示されている点と思われる。法律審である最高裁においても,事実誤認の主張に対し,事案の適正な処理と当事者の具体的救済をはかるために正義の見地から職権による調査がなされることがあり,必ずしも事例は多くないが,その判断理由が詳細に判示されることがある。これまで事実認定についての詳細な判断が示された事例としては,被告人本人や共犯者の自白,さらには被害者証言等,供述の信用性が問題となったものが多く(例えば,いわゆる仁保事件についての最二小判昭45.7.31刑集24巻8号597頁,判タ251号137頁,いわゆる鹿児島の夫婦殺し事件についての最一小判昭57.1.28刑集36巻1号67頁,判タ460号68頁,いわゆる山中事件についての最一小判平1.6.22刑集43巻6号427頁,判タ699号54頁など。),本件のように犯行と被告人との結びつきに関して情況証拠からの認定が問題となっていたものとしては,本判決でも引用されている最一小決平19.10.16判タ1253号118頁(※刑訴百選【11版】58事件)や,いわゆる長坂町放火事件についての最一小判昭48.12.13裁判集刑190号781頁,判時725号104頁がある。上告審としての事実誤認の主張に対する審査方法は,「原判決の認定が論理則,経験則等に照らして不合理といえるかどうかの観点から行うべきである」とされているが(最三小判平21.4.14判タ1303号95頁参照),具体的事案においては,このような論理則,経験則違反と単なる証拠評価の違いとを区別することはなかなか難しいものがあると考えられる。本件は,犯人性が争われていた中で,原審において死刑という究極の刑が宣告された事件であり,各裁判官の個別意見を見ると,具体的な証拠評価においても,本来法律審である最高裁において原判決をどのように審査すべきかという問題についても,各裁判官の立場の微妙な違いが現れている。刑事裁判における事実認定についての基本的な考え方といった大所高所の問題と,本件の証拠に照らして見たときの原判決(及び第1審判決)の評価といった具体的な問題について,各裁判官によって慎重な検討が重ねられたことがうかがわれる。本判決の多数意見がどのような判断を下していることになるのかを正確に読みとるためには,前記のように,第1,2審の判決,さらには証拠関係も吟味し,多数意見と各個別意見とを見比べることが必要と考えられ,差戻審において,この判断の拘束力の及ぶ範囲が検討され,更に審理が重ねられることになると考えられる。
ただ,本件においては,事実誤認の疑いのみが破棄理由とされているのではなく,審理不尽が理由となっていることは,刑事事件の審理を行う下級審裁判所において今後注意すベき点であるように思われる。すなわち,本判決においては,検察官による主張に対して被告人側から具体的な反論がなされている場合には,他の証拠によって有罪の心証に強く傾いたとしても,その反論を安易に排斥することなく,その反論が有罪認定に対する具体的な疑問を生じさせる可能性があるかどうかを慎重に検討し,必要に応じてその点に関する主張立証を尽くさせるよう配慮すべきである旨が示唆されているものと考えられる。
4 ところで,本判決は事例判断を示したものであるが,その判文中において,情況証拠による有罪認定に関して,「情況証拠によって認められる間接事実中に,被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が含まれていることを要する」との判示がなされているので,これが,情況証拠からの有罪認定に際しての何らかの新たな判断方法ないし基準を示したものかどうかが問題となる。この点については,上記説示が前提としているところの反対の場面,すなわち,「被告人が犯人でないとしても合理的に説明ができる事実関係しか存在しない」という場面を想定すれば,それは,他に犯人が存在する可能性があるということであるから,そのような事実関係しか存在しないならば被告人を有罪と認定することができないのは当然である。また,上記説示において,「事実」ではなく,「事実関係」とされていることからすれば,これが決め手となる1個の事実の存在を求めるものではなく,多数の事実を総合判断した評価としてそうなることを求めているものと理解されるように思われる。したがって,また,有力な間接事実を積み重ね,犯人性を推認していくという事実認定の手法を否定する趣旨のものではないであろう。そして,本判決は,情況証拠から被告人を有罪とした1,2審の判断を維持した上記最一小決平19.10.16(※刑訴百選【11版】58事件)を引用しつつ,「情況証拠によって事実認定をすべき場合であっても,直接証拠によって事実認定をする場合と比べて立証の程度に差があるわけではない」と判示しており(藤田裁判官の補足意見においても,前記のような考え方は上記最一小決と矛盾しないと述べられている。),このことからしても,上記説示は,有罪認定のための新たな基準を定立したものではなく,事実認定判断の際の視点の置き方について注意を喚起しようとしたものではないかと考えられる。この説示と同趣旨の見解は,これまでにもみられたところであり,例えば,斎藤朔郎『刑事訴訟論集』239頁(中川武隆ほか『情況証拠の観点から見た事実認定』29頁でも引用)においては,「綜合の結果としての結論は,合理的な判断によると,唯一の結論でなければならない。合理的な判断によって,その結論と矛盾する他の仮定を許すようなものであってはならないのである。従って,その認定せられた要証事実を真実なりとして始めて,一切の間接事実は相互に関連して共存する関係が,矛盾なく説明できると共に,他の如何なる別の事実を仮定しても,かかる矛盾のない関連関係が,到底説明できないというテストに,堪えるものでなければならない。」と説かれていた。本判決の上記説示は,被告人の有罪方向を示す多数の情況証拠がある場合に,ややもすれば,「被告人が犯人であるとすればこれらの情況証拠が合理的に説明ができる」ということのみで有罪の心証を固めてしまうおそれがあることに対し,上記のような観点から警鐘を鳴らそうとしたものと理解されるところである。
なお,この多数意見の説示に関しては,堀籠裁判官による反対意見において,この概念が「合理的疑いを容れない程度の立証」というこれまで一般的に用いられた概念とは独立したものとして一人歩きすることへの危ぐが示されている。
5 本判決は,情況証拠からの事実認定という重要問題について,詳細な判断を示したものであり,また,その際に留意すべき視点にも言及されていることから,実務上参考になる点が多いと思われるので,紹介する次第である。」

