最高裁平成16年7月12日刑集58巻5号333頁・刑訴百選【11版】12事件(おとり捜査の許容性)

 本判例は、おとり捜査の許容性について、直接の被害者がいない薬物犯罪等の捜査において,通常の捜査方法のみでは犯罪の摘発が困難である場合に,機会があれば犯罪を行う意思があると疑われる者を対象にして行われるおとり捜査は,刑訴法197条1項に基づく任意捜査として許容されるとした判例です。

 判例を引用します。

 https://www.courts.go.jp/hanrei/50063/detail2/index.html

 「(上告趣意に対する判断)
 弁護人高橋正俊の上告趣意第1は,本件大麻樹脂の取引は麻薬取締官やその意を受けた捜査協力者から被告人に対し執ように働き掛けてきたもので,被告人は大麻樹脂の取引にかかわりたくないと考えていたものの,捜査協力者から大麻樹脂が用意できなければ自分の立場が危ないと懇請され,同人の頼みを断り切れずに大麻樹脂を調達したものであって,かかるおとり捜査は憲法13条及び31条に違反する旨主張するが,原判決の認定に沿わない事実関係を前提とするものであるから,所論は前提を欠き,その余の上告趣意は,単なる法令違反,事実誤認,量刑不当の主張であって,刑訴法405条の上告理由に当たらない。
(職権判断)
 なお,所論にかんがみ,本件おとり捜査の適否について職権で判断する。
 1 原判決及びその是認する第1審判決の認定並びに記録によれば,本件の捜査経過は,次のとおりである。
 (1)被告人は,我が国であへんの営利目的輸入や大麻の営利目的所持等の罪により懲役6年等に処せられた前科のあるイラン・イスラム共和国人で,上記刑につき大阪刑務所で服役後,退去強制手続によりイランに帰国し,平成11年12月30日偽造パスポートを用いて我が国に不法入国した。
 (2)上記捜査協力者(以下,単に「捜査協力者」という。)は,大阪刑務所で服役中に被告人と知り合った者であるが,自分の弟が被告人の依頼に基づき大麻樹脂を運搬したことによりタイ国内で検挙されて服役するところとなったことから,被告人に恨みを抱くようになり,平成11年中に2回にわたり,近畿地区麻薬取締官事務所に対し,被告人が日本に薬物を持ち込んだ際は逮捕するよう求めた。
 (3)被告人は,平成12年2月26日ころ,捜査協力者に対し,大麻樹脂の買手を紹介してくれるよう電話で依頼したところ,捜査協力者は,大阪であれば紹介できると答えた。被告人の上記電話があるまで,捜査協力者から被告人に対しては,大麻樹脂の取引に関する働き掛けはなかった。捜査協力者は,同月28日,近畿地区麻薬取締官事務所に対し,上記電話の内容を連絡した。同事務所では,捜査協力者の情報によっても,被告人の住居や立ち回り先,大麻樹脂の隠匿場所等を把握することができず,他の捜査手法によって証拠を収集し,被告人を検挙することが困難であったことから,おとり捜査を行うことを決めた。同月29日,同事務所の麻薬取締官と捜査協力者とで打合せを行い,翌3月1日に新大阪駅付近のホテルで捜査協力者が被告人に対し麻薬取締官を買手として紹介することを決め,同ホテルの一室を予約し,捜査協力者から被告人に対し同ホテルに来て買手に会うよう連絡した。
 (4)同年3月1日,麻薬取締官は,上記ホテルの一室で捜査協力者から紹介された被告人に対し,何が売買できるかを尋ねたところ,被告人は,今日は持参していないが,東京に来れば大麻樹脂を売ることができると答えた。麻薬取締官は,自分が東京に出向くことは断り,被告人の方で大阪に持って来れば大麻樹脂2kgを買い受ける意向を示した。そこで,被告人がいったん東京に戻って翌日に大麻樹脂を上記室内に持参し,改めて取引を行うことになった。その際,麻薬取締官は,東京・大阪間の交通費の負担を申し出たが,被告人は,ビジネスであるから自分の負担で東京から持参すると答えた。
 (5)同月2日,被告人は,東京から大麻樹脂約2kgを運び役に持たせて上記室内にこれを運び入れたところ,あらかじめ捜索差押許可状の発付を受けていた麻薬取締官の捜索を受け,現行犯逮捕された。
 2 以上の事実関係によれば,本件において,いわゆるおとり捜査の手法が採られたことが明らかである。おとり捜査は,捜査機関又はその依頼を受けた捜査協力者が,その身分や意図を相手方に秘して犯罪を実行するように働き掛け,相手方がこれに応じて犯罪の実行に出たところで現行犯逮捕等により検挙するものであるが,少なくとも,直接の被害者がいない薬物犯罪等の捜査において,通常の捜査方法のみでは当該犯罪の摘発が困難である場合に,機会があれば犯罪を行う意思があると疑われる者を対象におとり捜査を行うことは,刑訴法197条1項に基づく任意捜査として許容されるものと解すべきである。

 これを本件についてみると,上記のとおり,麻薬取締官において,捜査協力者からの情報によっても,被告人の住居や大麻樹脂の隠匿場所等を把握することができず,他の捜査手法によって証拠を収集し,被告人を検挙することが困難な状況にあり,一方,被告人は既に大麻樹脂の有償譲渡を企図して買手を求めていたのであるから,麻薬取締官が,取引の場所を準備し,被告人に対し大麻樹脂2kgを買い受ける意向を示し,被告人が取引の場に大麻樹脂を持参するよう仕向けたとしても,おとり捜査として適法というべきである。

 したがって,本件の捜査を通じて収集された大麻樹脂を始めとする各証拠の証拠能力を肯定した原判断は,正当として是認できる。
 よって,刑訴法414条,386条1項3号,181条1項ただし書,刑法21条により,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり決定する。」

 本判例に関する評釈である判例タイムズ1162号137頁は下記のように指摘します。

 「4 ところで,おとり捜査は,将来の犯罪に向けられたものであることから,そもそも刑訴法上の「捜査」の概念に含まれるかという問題がある。学説中には,これに疑問を呈する見解(三井誠・刑事手続法(1)〔新版〕89頁)もあるが,多くは,理由付けはともかく刑訴法上の任意捜査であることを肯定している(池田修「いわゆるおとり捜査の適否」増補令状基本問題(上)40頁,酒巻匡「おとり捜査」法教260号104頁,山上圭子「おとり捜査」新実例刑訴法Ⅰ9頁等)。
 しかし,おとり捜査も無制約ではないとした場合,①いかなる理由でおとり捜査が違法となり得るのか,②その違法性の実質を踏まえ,いかなる基準の下に捜査の適否を判断すべきか,③仮に違法とされた場合にどのような訴訟法的効果が生ずるのか,という点は,学説上,必ずしも見解が一致していない。
 おとり捜査の違法性の実質については,学説上,①人格的自律権,個人の尊厳に対する侵害にあるとする見解(三井・前掲89頁),②捜査の公正さを損なうことにあるとする見解(田宮裕「おとり捜査」別冊判タ9号105頁等),③法益を保護すべき国家が犯罪を創り出すことにあるとする見解(酒巻・前掲103頁),あるいは,それらの複合とする見解(佐藤隆之「最新重要判例評釈(24)」現代刑事法12号89頁,瀧賢太郎「おとり捜査の必要性をめぐって」警察学論集57巻5号25頁,會田正和「おとり捜査」刑事裁判実務大系(11)236頁等)がある。このうち,③の観点を重視する見解からは,おとり捜査の適否は,国家(捜査機関)が法益侵害を惹起させる力,すなわち違法性の程度とこれを正当化する反対利益,すなわち,犯罪摘発による秩序維持という公益との比較衡量により決すべきことになるのではないかと思われる。本件の控訴審判決が示した判断手法,すなわち,おとり捜査の必要性,態様の相当性を総合考慮して適否を判断する考え方(池田・前掲40頁と同旨)は,実質的にはこのような比較衡量論に立つものと思われる。また,この比較衡量論からは,いわゆる機会提供型は,犯罪創出という面が薄く適法となるのに対し,犯意誘発型は犯罪創出という面が強く,違法に傾くのではないかと思われ,これまでの実務の二分説的な考え方は,結果的に,基準として簡明かつ相当な振り分けであったとみることもできよう。
 5 本件おとり捜査は,大麻の買手を探していた被告人を対象とし,取引の機会を設定し,大麻の現物を持参させるために一定の働き掛けを行ったにすぎないものであり,従来の下級審の流れからは,典型的な機会提供型に属し,捜査として適法であることに異論はないと思われる。
 本決定は,おとり捜査の意義を明らかにし,一定の犯罪についておとり捜査が刑訴法197条1項の任意捜査として許容されるとの判断を初めて示した上,捜査官側からある程度積極的な働き掛けも行われた本件事案の下での適法性を肯定し,訴訟法的観点から初めておとり捜査の適否について判断を示したものといえる。おとり捜査の適否についての判断基準を一般的な形でこそ示してはいないが,本件事案に即して見れば,少なくとも,機会提供型を適法としてきた下級審裁判例の方向性を是認するものといえよう。本決定は,おん密化,巧妙化するこの種の薬物事犯摘発の捜査手法としておとり捜査に積極的な評価を与える意義を有するものであり,実務に与える影響も少なくないと思われる。
 なお,傍論ではあるが,おとり捜査の違法が違法収集証拠の問題となり得ることを前提とする説示がされているのも注目に値する。」